「理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性」 by 高橋昌一郎

「理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性」 高橋昌一郎  著

講談社現代新書 

2008年6月20日 第1刷

2020年4月1日で、第20刷というのだから、相当売れている本なのだろう。

 

しかし、かなり難解。

架空の人物のディスカッション方式が余計に、、、読みにくい・・。私には。

 

タイトルは「理性の限界」ということになっているけれども、三つの限界、ここでは、「選択の限界」、「科学の限界」、「知識のが限界」について書かれている。

 

「科学の限界」と「知識の限界」は、何となくどんな話なのかはわかるような気がするし、実際に書かれていることも、うん、そういうことはあるだろう、という感じがした。

 

科学はその時代における最新の情報によって、科学者集団の主観として合意されたことであり、時代とともに変わる可能性は否めない。未来永劫、絶対なる真であるかは、今はわからない。

 

知識の限界は、自然界においてでも、そこには確固たる実在や確実性はなく、根源的な不確定性やランダム性が潜んでいるということ。 わかりにくいけど、わかったつもりでも、本当はわからないという堂々巡りがある、という事と理解した。

 

一番新鮮だったのは、「選択の限界」。

これまで選挙の投票方法などあまり深く考えたことがなかったが、選挙の投票方法その選択の方法色を変えることによって結果が変わるということをが示されていた。コンドルセパラドックス

 

コンドルセパラドックスとは、投票の逆理。投票において、投票者一人一人の選好順序は推移的なのに、集団としての選考順位に循環が現れる状態があることを表す命題。18世紀の社会学コンドルセが発見した。つまり意見としては多数派なのに、少数派に負けてしまうことがあるということ。

 

アメリカの大統領選やフランスの大統領選が例として説明されていて、なるほどそういうことか。

 

アメリカの間接選挙も、フランスの直接選挙もどちらも、完全な民主主義的な選挙ではないということ。選挙方法を変えていたら、当選者が変わった可能性があるというのである。

 

アローの不可能性定理も、同様なことが示される。

定義によれば投票者に三つ以上の独立した選択肢が存在する場合、いかなる選好投票制度であっても個々人の選好順位を共同体全体の順に変換する際に、特定の評価基準(選挙方法)に同時に満たすことはできない。ということ。

 

あまり、気にしたことがなかった。

でも、確かに、示された例は、選挙方法によって、結果は変わることを示していた。

一票の格差どころじゃない、という事がわかった。

でも、だから、何がいいのか?は、それこそ、正解はわからないけど。

さて、日本の今の選挙方法が、今の日本にあっているのか???

なぞ。

 

「選択の限界」は、個人の人生の選択においても起こっている。

そう、理論で、理屈で、数字で考えても答えが出ないものがあるのだ。

無限循環に陥ると、エクセルがハングアップするように。。。

 

私たちが人生において何かを選択するとき、科学の限界でもあるように、今、その時代、という背景というか、今、の基準で考えるしかない。外部環境の影響は大きい。私の祖母の時代は、”はい、この人がお婿さん”と、結婚式の前の日に旦那を紹介された時代。それでも、祖母は幸せだったと思う。30代で乳児を含めた5人の子供を抱えて未亡人になっちゃったけど。

日本国憲法第二十四条によれば、「婚姻は、両性の合意に基づいて成立し・・・」という事になっているが、両性という文言にさえ、今は???がつく時代。
婚姻相手を選ぶ自由があるほど、選択できなくなる。

結婚だって、コロンビア大学のジャムの実験と一緒。

 

自分の人生は、今のあらん限りの脳みそを使って、考えて、決めるしかない。

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。

自分で、選択する。

 

でも政治家は、何をもとに選択しているのか?

有識者の意見? 科学にも限界があるのに?知識にも限界があるのに?

政府が緊急事態宣言をだそうが、出さなかろうが、自分の身は自分で守るしかない。

少なくとも、それができる人は、そうするべし。

かつ、将来の自分の健康も考えるべし。

運動・食事・睡眠、それ以外に免疫力を高める手立てはない。

今のコロナを生き抜く選択は、多数決に従うのではなく、自分でできることをする、という選択。

 

まぁ、その選択も、今の科学の知識に基づいた選択で、結局のところ限界があるのだ。

 

正解かどうかなんて、結局歴史が判断するのかもしれない。

生きている間は、何が正解かはわからない。

だから、生きていられる。

ま、いいじゃないか、自分で考えて、自分で決めたなら。


そう、限界があっても、

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。

それが、自分の楽しみ方。

 

余計なものは、「オリ」にして出してしまえ。

澱、オリ。

沈殿物。

 

一週間ぐらい前に開けた、ピノタージュ。

南アフリカの赤ワイン。

ピノノワールとサンソーが交配された葡萄で、すっきり飲みやすいテーブルワイン。

保存性を高めるために、小瓶に移しておいてとってあった。その小瓶を今日飲んだら、ちょっとすっきりした味わいになっている。そして瓶の底にはたくさんの「オリ」がたまっていた。

 

オリを取り除いた上澄みのワイン。

すっきりしている。

もしかすると味の複雑さとかは、なくなってしまっているのかもしれない。

香りはそれなりに結構残っている。

赤系フルーツ、黒系フルーツ。

タンニンは弱くなっているような気がする。

酸も少し弱くなってるかも。

でも、これはこれで、おいしいよ。

 

少なくなったと思うものは沈殿としてのぞかれちゃったのね、きっと。

冷蔵庫の中で、 じっとしている間に沈殿になっちゃったのね。

何もしていない。

じっとしてただけ。

 

人間も、何もしないでじっとしていると沈殿ができるかも。

うまくいかない時は、あがいて動き回るより、じっとしている方がいいのかもしれない。

そして余計なものをオリにして出してしまえ!

 

人生すっきりさせるには、時々、じっとしていることもいいのかもしれない。

 

坐禅ですっきりするのは、じっとしている間に、余計なものがオリになって、 取り除かれるのかもしれない。

 

コロナで、緊急事態宣言で、じっとしている時間ができた。

じっとしている時間も、大切にしよう。

 

立ち止まって考える。

コロナがくれたその時間を、活用しよう。

 

でも、緊急事態宣言は、うれしくない。

早く、収束しますように。

知行合一

学習というのは、インプットとアウトプットからなる。

 

インプットとは、五感。

アウトプットとは、行動。

 

五感というのは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。

行動というのは、筋肉をつかった人間の動きのこと。

 

言語の学習で言えば、

聞く⇒ 話す

見る⇒ 書く

英語のvocalizationは、見て、聞いて、口を動かす。

繰り返し、繰り返し、、、、

 

それを繰り返し、繰り返し、人は学習していく。

反復練習は、何においても大事なのである。

 

赤ちゃんは、五感をつかいまくる。

だから、なんでも口にする。

そして、口に入れて美味しくないと、ペッと吐き出す。
なんどか、ペッと吐き出しているうちに、

これは、食べ物ではない、と学習する。

 

ピアノは、週に一度お稽古に通ってもうまくならない。

毎日ピアノを弾いていると、そのうち、音楽らしくなってくる。

 

料理は、料理教室に通っても、うまくならない。

毎日、家で料理していれば、なんだか、それらしいものができるようになる。

 

どんな天才であろうと、やはり、反復練習が一番大切なのだ。

在宅勤務も、毎日やっているうちに、自分に合ったやり方にブラッシュアップされる。

コーヒーを入れるのだって、毎日やっていると、美味しいやり方がわかってくる。

 

昔の人は、インプットを「文」、アウトプットを「武」といった。

文武両道。

陽明学では、知行合一

 

養老孟子先生からの受け売りだけど、まさに、「知行合一」なくして、学習はないのだ。

インプットだけじゃダメ。

アウトプットしないと。

行動しないと。

 

抽象的に考えているだけでは行動じゃない。

具体的に考えて、行動しよう。

 

継続は力なり。

 

さて、毎日ブログを書いていると、文章はうまくなるのだろうか?

それは、ただいま、実験中・・・・。

 

 

「最後の授業」 by アルフォンス・ドーテ

「最後の授業」 by アルフォンス・ドーテ 桜田佐 訳

偕成社文庫 1993年7月 第一刷発行

 

ワインの勉強をしていて、フランス アルザス地方についての雑談で出てきた本。

淡々と、短文でつづられる短編集。 

 

フランスの歴史の一部を、さらーーーっと、撫でるような本だった。

 

1870年 フランスは、プロアシアとの戦いに敗れ、プロシア国境の地方、アルザス・ロレーヌ地方はその代償としてプロシア領となる。

 

「最後の授業は」、フランス語の授業ができなくなるとは知らず、遅刻して学校についた主人公が、その現実を知る。いつもなら、遅刻して大目玉、のところが、今日は先生の様子がちょっと違う。最後の授業だから。教室の外ではいつものように鳩が鳴いている。主人公は思う。
「鳩も、ドイツ語で鳴かなきゃいけなくなのかな・・・」

 

史実として、悲しい出来事。

他の短編も、淡々と戦争の影響をうける市民の暮らし、戦士の暮らしが語られている。

読んだ本は児童書だったので、とても簡潔な日本語で、わかりやすい。

淡々と出来事が書かれている分、余計に、戦争というものの現実とむなしさを主張してくる感じがする。

 

本読んでいて、思うのだが、小説のような形で目にする史実は、歴史の勉強をするより、よっぽど記憶に残る。

土地の名前も、物語と関連していると地図も名前も、なんとなく記憶に刻まれる。

 

「最後の授業」の作者 アルフォンス・ドーテは、1980年5月13日 ニーム生まれ。ニームといっても、一般の人には聞きなれない地名かもしれないけれど、ワインの勉強をしていると、フランスの南ローヌとラングドックルーションを隔てる街の名前として教科書に出てくる。

 

プロイセンも、普仏戦争も、正直言って、私はあまりよく理解していなかったけど、ワインでアルザス地方を勉強すると、必ず「ドイツと似ている」と出てくる。フルート型のボトルの形、郷土料理、町並み、ドイツとライン川を隔ててお隣であることもあるが、歴史上、ドイツの土地だった影響が大きい。

 

本を読む、読書って、勉強しなきゃいけないのに、現実逃避のようだけど、実は頭の中で点と店がつながることがあって、だから楽しい。

 

私自身、今週末、6月、と色々な試験が迫っていて、そっちの勉強をせねばないのだけど、やっぱり、読書はやめられない。

 

 

 

 

 

 

考えない時間 朝の坐禅

初めてやった。

朝のWeb坐禅

主催の方に誘っていただき、Zoomで参加。

気持ちよかった。

 

やっぱり朝起きて30分後ぐらいだと、まだ今日は何をしようかな?とか、冷蔵庫にあれがあったなーとか、今日の午後の予定はどうだったかな?とか、いろんな雑念がある。

自宅で、Web坐禅をしたのは、初めてで、かつ、30分間続けて坐禅をしたのも初めて。

時々参加する、全生庵での坐禅は、20分、2本、だったかな?30分続けることはない。

全生庵全体のひっそりとした感じと平井住職の醸す空気が、それはそれで緊張感というか、時間の長さではない充実感がある。

自宅でも、30分も座り続けていると、最後の方は、あまりあれこれ考えず、呼吸の数だけ数えていた。

気が付くと、30分終了。

 

感想。

気持ちいい。

6:30は、まだ外の音も騒がしくない。

ラジオ体操より、気持ちいい。

いいぞ、これは。

 

坐禅をやっていて気持ちいいのはなんなのか?っていうことを雑念にとらわれながら坐禅中に考えていた。誰かから何かを教えられたり、本から何かを読み解こうとしたり、たぶん頭で色々考えているよりも、坐禅をしている時間は何も考えなくていいという時間が心地よいのだと思った。

 

無にはなれないけど、無になって良い時間。

誰かから何か言われると、それはなんか押し付けられているように聞こえたり、相手は決してそんなつもりでは言ってなくても、勝手に自分の方でそんなこと言われたってって思ったり。

偉そうに言ってるけど、あなただってどうなのよ、なんて否定的に思ったり。

人の話を聞くときには、頭の中でそれを自分で受け入れるかどうかをぐるぐると考えている。たとえそれが素晴らしい考えだと思ったとしても、それはそれで脳は疲労する。

でも坐禅というのは、本当に何も考えていない時間だから、もちろん無になるという境地まではいたったことはないけれども、でもそうしていていい時間があるということが、ありがたくて、幸せな時間なのだと思う。

 

坐禅をしている時間が好きだ。

何も考えないでいることを許される時間が好きだ。

 

私にとっては、これは長距離の飛行機に乗っている時と少し似ている。飛行機に乗ってしまった以上、自分の命は飛行機の操縦者に、あるいはコントロールしているコンピューターに委ねているということ。

飛行機が着陸するまで、自分の命は、自分では管理できないようなもの。

実はその時間が結構好きだったりする。

他力本願とでもいうのだろうか。

自立したい、自立したい、とすごく思っているけれども、

自立するっていうのは、他者の力を借りるということなのである。

 

人間は一人では何もできない。

一人で考えても何もできない。

まず行動せよとは言うけれども、その前にまず空っぽになって、真っ白なキャンバスに、毎朝、真っ白なキャンパスになれる時間が必要なのかもしれない。

 

ねている時間とはやっぱり違う。

起きてはいるけれども無になってる時間。

無になってる時間は、意識しないと取れないし、一緒に坐禅を組んでくれる仲間がいるというのは、それはありがたいことである。

朝のWeb坐禅、初めて行ったけど、いやー気持ちいいな。

 

明日は一人でやってみようかな。

一人だと、覚醒するのに、タイマーのピピピ、、、にするしかないのが残念。

「ダリウスは今日も生きづらい」 by アンディーブ・コラム

「ダリウスは今日も生きづらい」 アンディーブ・コラム 集英社 

2020年12月20日第1刷発行

 

心をゆるめたい時に、おすすめ。

読んでよかった。

数時間で一気読み。

 

アカデミーヒルズのおすすめの本だったので読んでみた。

最初は、普通に家族愛の物語かと思って読み始めた。普通に、文章表現が面白いなと思いながら。394ページ結構な分厚さの本である。

 最後の5%ぐらい、怒涛の展開。号泣しながら読んでしまった。

やはり父親と息子の、母と息子の、そして家族みんなとの、友達との愛の物語。

ごくありふれたテーマだけれどもやはり心にしみる。

特にしみる。

主人公とその父親は、二人そろって鬱を背負って生きている。

思いの行き違い。それが溶けて再び父親と息子がお互いの存在を必要としていることを認識しあう。そりゃ、泣かないわけがない。

 

私も、田舎の親戚にあいに行きたくなった。

コロナが収まったら、、、、祖母のお墓参りに行こう。

家族に、親戚に、やさしくなりたくなる本だった。

 

以下、ネタばれあり。

主人公 ダリウスは、アメリカに住む、ペルシア系の高校生。学校では、あまり友達とはうまくいっていない。いじめられている。鬱の薬も飲んでいる。天真爛漫な8歳の妹はかわいい。

母親は、イラン出身。結婚してアメリカにきてから15年、実家のヤズドに帰国していなかったが、ダリウスの祖父、母方の祖父の病気が思わしくなく、ペルシアの新年(ノウルーズ)のタイミングで、2週間ばかり、母親の実家へ家族4人で帰国することにする。

そこで、ダリウスは初めて、自分の親戚にあい、初めてココロ許せる同世代の友達に出合い、、、。

うれしいこと、悲しいことを、ぎゅっと凝縮した2週間を経験することになる。

鬱、宗教、親戚、、、、政治、、、。

初めて友達と思えた友達は、バハーイー教徒。イランでは政治的に迫害されている。でも、ダリウスには優しかった。

その2週間で、ダリウスは、一回りも二回りも、、、なにか、成長という言葉で言い表せない、変化を遂げる。

アメリカに帰国して、これから、前よりはちょっとうまくやっていけそうな予感で、話は終わる。

 

著者の、デビュー作らしい。

著者自身が、鬱とともに生きている。そんな著者だから表現できた鬱の人の自分へのいら立ちや、周囲の人の戸惑い、心に響いてくる感じがした。

 

小説の中で、ダリウスが友人が言われた言葉、

「あなたの場所が空っぽ」

相手にいてほしいときのペルシアの表現らしい。

なんて、詩的で、切ない表現何だろう。

「あなたの場所が空っぽ」

空っぽを、埋めてもらえたら、うれしいね。

 

著者が、あとがきで、

「何があろうと、鬱に人生をコントロールさせる必要はない」と書いている。

 

心が、暴れても、暴れる心にコントロールされるのではなく、やり過ごす。

そんな、時間も必要なのかもしれない。

場所をかえることで、やり過ごすこともできるのかもしれない。

 

「ダリウスは今日も生きずらい」

なかなか、良い本だ。

ちょっと、西加奈子の「サラバ」を思い出した。

少年たちの、短い時間で築かれる友情物語。

でも、その短い時間が、その後の人生を変えるほどの経験になることがある。

 

たくさんのこと、経験しよう。

うまくいかなくてもいい。

経験して、学べばいい。

人生は、死ぬまで勉強なのだ。

だから、楽しい。

 

今日も生きづらくても、気にしない。

人生、楽しもう。

 

「ボージョレの真実」 by ミシェル・ドゥプロスト

ボージョレの真実」 by ミシェル・ドゥプロスト

 

図書館で目に入ったので借りてみた。

2006年河出書房新社

既に10年以上昔の本なので、ボジョレーを取り巻く環境、いやワインを取り巻く環境は大きく変わっていると思うが、2004年にボージョレー復興のために立ち上がった取り組みが紹介されている。

 

ボージョレのワイン、ヌーヴォだけでなく、美味しいワインもいっぱいあるのよね。

厳しい環境で育ったぶどうのほうが、美味しいワインになる。

人も、厳しい環境を経験したほうが、味わいのある人になる。

なんて気がする。



ボージョレ・ヌーヴォーといえば、11月の第3木曜日が解禁。世界で一番に販売されるのが日本であることで有名。一番と言っても、実のところ、大きなワイン消費国の中で最初ということだが。

ワインの歴史を学ぶと必ず出てくるのが、19世紀の病害虫のトラブル。ボージョレもフィロキセラの被害にあってアメリカ産のぶどうとの接ぎ木に頼る必要に迫られたのだが、植え替えには重い投資が必要で、それに耐えられる資金力のある産地しか、アメリカ産のぶどうの接木導入はできなかったのである。ボージョレは、それは何とか切り抜けた。

フィロキセラの被害はフランスのワイン生産量を大幅に縮小させた。それでもワインを飲みたかった人たちの不合理な執着心のなせる業で、なんだか怪しげなワインもどきが市場に出回るようになる。

干しぶどうから作る偽のワインのようなものである。 違法行為も横行した。そして1884年8月14日ワインとは「新鮮なブドウを絞った飲み物のこと」であると法律で初めて定義されることになったのである。

だからワインは農産物なのだ。

だからテロワールという言葉が重要になる。 

 

ボージョレーといえばガメイという黒ぶどうで作るフレッシュな赤ワインが有名。 土地は花崗岩。ガメイは花崗岩土壌に適したブドウで、ほっとくとどんどん成長してしまい、安いテーブルワイン向けのワインになってしまう。それをおいしいワインにするために人々が色々な工夫をするわけだ。

まさに人の手によってぶどうから美味しいワインが造られる。それはぶどう作りから始まるのである。

 

ボージョレの歴史的詩人の一人であるルイ・オリゼのアンソロジー「わがボージョレ」の中には、ボージョレ愛が満ちている。

「ワインはどうして花崗岩質の土地でより繊細な味を獲得するのだろうか。

同じ花崗岩質の土壌でも銘柄酒によって、どうして微妙な差が出るのだろうか。

そこにこそブドウの神秘がある。

秘密は明かさずに置くのが良いだろう」

オリゼで曰く「わがボージョレ」は信仰告白であると。ボージョレワイン愛のの告白であると。

日本人からすると、これが詩か??と思うところだが、フランス人にとっては、立派な詩なのだろう。

 

それほどまでに、フランス人にとっては、日常生活にも欠かせないのがワインだったのだろう。

今でも、ワインが日常にあるには違いないが、消費量としては、減少傾向。

世界的な環境の変化から、以前のような農薬・肥料に頼る農業から、有機農業や、サスティナブル農業、と言われる農業に変わってきて、これからも、ワインは、進化し続けてくれることを願っている。

 

私は、一人のワインラバーだが、自分が生産者だったら、と思って、この本を読むと、い立たれない気持ちにもなる。自然のものだけれど、人の手が必要。それが農業。

 

本の中に一節に、「雑草をなくしてしまうと、ワインの木は根を地下まで張らなくなる」と書かれている。ワインは、根を深く伸ばすほど、地中の水分を一生懸命すって、美味しい実になる。楽をさせると、美味しい実にならない、という、過保護厳禁の作物なのである。雑草と共存させて、たくましく育てたほうがいい。

 

人も、雑多に、色々な人と交わって育った方が、体も心もたくましくなる。

と、そんな気がする。

 

本当においしいものは、人を幸せにする。

そして、持続可能でなければならない。

 

美味しい葡萄を、ワインを作ってくれる生産家さんに感謝して、今日もおいしいワインをいただくことにしよう。