「世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義」 by 山本芳久

世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義
山本芳久 著
新潮選書

2021年1月25日 発行

 

中世ヨーロッパの哲学者であり、「神学大全」の著者トマス・アクィナス 。「神学大全」は全45巻という大作で、日本においては、1960年から2012年にかけて翻訳されている。


私はそのうちの一冊も読んだことはないし、トマス・アクィナスという名前もそんなに馴染みがあるわけではない。


出口治明さんの 大作、「哲学と宗教」にでてきて、
トマス・アクィナス(1225頃~1274)は、アリストテレス哲学とキリスト教神学の調和をはかり、キリスト教の教義の深化に大きな貢献をしたことで評価され、ローマ教会の聖人となっています。”
と、書かれていたな、、、という程度の知識しかなかった。

(もちろん、上記文章は暗唱していたわけでなく、「哲学と宗教」から引用)

 

知人が、ある人に本書を薦めていたので、私も読んでみようと思って、図書館でかりた。

 

まず最初の感想は哲学書にしてはとてもわかりやすい。


著者の山本さんは、トマス・アクィナスの「感情論」からご自身が読み取ったものを、「肯定の哲学」として長く研究されていて、いくつかの本を出されている。

そして、トマス・アクィナスの哲学について、よいわかりやすい本を出そうということで、本書では、「哲学者」と「学生」との対話という形式を使って、「学生」の質問に「哲学者」が懇切丁寧に答えるという仕方で編集されている。


その甲斐あって、私にも比較的分かりやすかった。


学生の身近な疑問が分かりやすく説明されているのと、 一気に全体を説明しようとせず細かく区切りながら丁寧に説明してくれているところが、思考が追いつきやすかった。
と言って哲学を理解できたわけではないけれども、ひとつだけトマス・アクィナスが言いたかったことでわかったような気がすることがある。


それは、全て人の「感情」というのは「愛」が中心にあるということ。


そしてその「愛」というのは、「愛する対象」から人が受動的に何らかの刺激を受けて、心の中に発生し得るもの。


一言で言ってしまえば、
「全ての感情の根底に愛がある」

それは、「愛する対象」があるから。

 

なんだそんなの、よく言われてることじゃないか、と言われてしまうと元も子もないのだが、、、
何と言うか、本書を読んでいくと、人は何かに心を揺り動かされて、希望を持ったり、絶望したり、良いことも、悪いこともあるのだが、どのような感情も、その元を辿っていくと愛なしには語れないということ。

 

本書を要約しようと思っても、こればっかりは、要約しようがない。

私が、自分の言葉で語れるほど理解できていないから。

だけど、なんとなく、腹落ちするのである。

そうか、そしてこの哲学は、神学とつながるのか、、と、腹落ちするのである。

人は、神の像であったとしても、神ではない。

神は、「全知・全能・最高善・完全・永遠・不変」であり、神は、善によって心が揺り動かされたりしない。

人は、善によって心が揺り動かされることによって成長する。受動することで成長する。感情が揺り動かされることで、成長する。

 

この、「感情」を明確な理論があるもの、とするのが、トマス・アクィナスの「感情論」。

 

その説明が、腹落ちしたから、なんとなく、全体に腹落ちした気がする。

 

感情は、希望によって揺り動かされるものであるが、

トマスは、何かが「希望」の対象になるためには、4つの条件が必要という。

① 善であること。

② 未来のものであること。

③ 獲得困難なもの。(希望と欲望は違う)

④ 獲得可能なもの。

 

善(bonum)というのは、道徳的善(bonum honestum)だけをいっているのではなく、

喜びを与えるという意味で善いものである快楽的善(bonum  delectabile) や、役に立つという意味で善いものである有用的善(bonum utile) がある。

不倫は、道徳的には受け入れがたいが、快楽という善がある。高金利金貸し業は、借りる側には高金利という受け入れ難さがあるが、いまキャッシュが手に入るという有用性がある。

 

未来のもの、というのはわかりやすい。まだ手に入れていないから希望をもっている。すでに手に入れたものに対して、希望を持つ、という言い方はしない。

 

獲得困難なものというのは、たとえば普段の食事は希望ではないけれど、震災などで何日も食事がとれていなければ、食事は希望になる。自分が今目指せる大学より、難易度の高い大学に合格することを目指すこととか。その大学に入学することが希望となりえる。

 

獲得可能というのは、例えば、50歳過ぎの私がこれからプロのクラッシックバレリーナを目指すというのは希望ではなく、無謀?!だろう。。。
お金持ちになる、とか、体重を今より5Kg少なくする、、、くらいなら、困難だけど獲得可能、まだ希望になりえる。

 

なぜ、希望について最初に多くを語っているかというと、感情と理性を対立させずに考えることで、自分の感情とうまく付き合うことができる、ということが一つの伝えたいことのようだ。

 

一つ一つの「感情」を丁寧に、理性的に分析するという仕方で「感情」を大切にすることと、「理性」を大切にすることが、ひとつながりになっている。それがトマス哲学。

 

 その「感情」に揺り動かされることのないのが、神。

 

そうか、キリスト教の人たちも、神を目指しているわけではなかったんだ、と、なにかが腹落ちしたような気がした。

 

山本さんは、哲学を学ぶことで、洞察力を身に着けることができるようになるという。

ちょっと、哲学を身近に感じられた本書、なかなかの良書だと思う。

 

今の私には、希望がある。

そうか、希望があるというのは、未来があるということなんだ。

愛したいと思う対象があるということが、いかに幸せか。

世界は善に満ちている。

なるほど。

 

善に満ちた世界で、希望をもって生きていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳山の棒、臨済の喝 と 女性活躍

今朝教えいていただいた、禅の言葉。

徳山の棒、臨済の喝  (とくやまのぼう、りんざいのかつ)「伝灯録」

 

ダイバーシティと禅、という事で取り上げられた言葉。

坐禅はひたすら座る。

禅の基本は「不立文字」であり言葉は使わないけれど、教えとしての言葉はある。

 

修行者を鍛えるために、徳山和尚(唐の時代の禅僧)はよく痛棒を加えた。

臨済禅師はよく、「かーーーーっ!」と大喝を与えた。

 

言葉を使わないので、棒や喝をつかった。

禅宗の修行のきびしさのたとえとしての言葉。

 

ただそれは、坐禅の一面に過ぎない。というのが、今日の言葉の伝えたかったこと。

内と外も一つ。

動も静も一つ。

 

仏教は、5世紀に日本に入ってきているが、それより前から、

ますらおぶり (万葉集): 動の側面

たおやめぶり (新古今和歌集): 静の側面

という言葉が日本にはあった。

大和心には、性差ではなく、どちらもある、ということ。

日本人の心には、元来、男が優れているとか、女が優れているとか、そんなものはなかった。どちらも、ただ、男であり、女であり、あるいは、どちらでもない人がいる。それだけのこと。

 

男性とか、女性とかいう事でもなく、生活の全体をとらえるもの。

それが、禅。

 

先日、「日本のこころの源流」の一つとして、「女性活躍」という話題で勉強会があった。

平等とは何か?

ダイバーシティーとは何か?

 

日本の世界におけるジェンダー・ギャップ指数ランキングは、120位。韓国や中国より低い。

*参考: 「共同参画」2021年5月号 | 内閣府男女共同参画局

 

政治分野における女性議員や女性内閣閣僚の数字、企業における管理職の数字が、著しく低い。

昨今、女性活躍がうたわれて、増えてきてはいるものの、他国のここ10年での女性活躍の伸び率に比べると、ほぼ、横ばいと言っていいほど増えていない。

 

管理職になりたくないという女性の声も聞く。

なぜか?

ロールモデルが、超長時間労働の日本人の男性管理職だからだろう。

男性と同じように働きたくないのに、男女平等だと言って同じ働き方を強いられるのはいやだ、という女性の声がある。

 

平等とは、そういう事ではない。

機会が等しくあるのが、平等の基本ではないだろうか?

 

私は、サラリーマンとして15年くらい、管理職をやってきた。

課長をやって、部長をやって、部下も持って、それなりに楽しくやってきた。

でも、女性だろうが男性だろうか、誰かをロールモデルにしたことはない。

なぜか?

モデルにしたいと思う人がいなかったというと語弊があるが、自分が目指すものは誰かのコピーではなく、自分のなりたい姿でしかなかったから。

実際には、私が入社した1990年代では、女性の管理職は、100人に一人もいなかったと思う。私自身、入社したころは、管理職になるなんて、考えていなかった。

女性としてのロールモデルは、皆無だった。

でも、入社12年目で、初めて海外赴任した時に、目覚めた。

マネジメントするという事の楽しさに目覚めたのだ。

当時、ほぼ、前例のない、独身30代、一般職の女性の海外赴任だった。

ロールモデルはいなかったけれど、指導者には恵まれた。

だから、楽しかった。

でも、ロールモデルがあると、目指しやすいのは確かだ。

 

今の、40代、50代、管理職として活躍する女性を見て、20代、30代の女性がそうなりたいと思うような生き方をしている人がいれば、女性でも管理職を目指す人が増えるのではないだろうか。

女性に限らない。

男性でもそうだ。

女性から見ても、あぁなりたい、と思える人が増えること。

それが、好循環には必要だ。

数字合わせのために、ただ女性を登用すればいいという事ではない。

ただ、男性と肩を並べるということでない。

男性だって、こういっちゃなんだが、ピンキリだ。

誰かを目指す必要なんてない。


自分の能力を、自分として職場で発揮する。

自分なりの管理職としての働き方を、探せばいい。

それが、責任をはたすということである。

会社ごとに、職務期待値があるはず。

それは、管理職であれば、努力とか姿勢とかではなく、結果を残すこと。

そのための働き方は、自分で工夫すればいい。

どうしたら、自分が貢献できるのか。

組織を通じて、社会に貢献するという事は、一人ではできないことができる楽しみがある。

怖がらずに、やってみればいい。

 

こういっちゃなんだが、最初から素晴らしい管理職の人なんて、それこそ100人に一人だろう。みんな、やりながら成長する。

自分の成長と、組織の成長がリンクしてこその楽しさ。

それを楽しむ機会は、男性にも女性にも、どちらでもない人にも、平等にあるべきだと思う。

 

 

社会への貢献の仕方は、人それぞれだし、誰もが管理職を目指せばいいというものでもないとも思う。

まして、管理職というのは、組織の中ので活躍の仕方でしかない。

組織に属さずして、個人で活躍している女性はたくさんいるだろう。

 

働き方改革は、組織の中での働き方のことを言っているだけではない。

組織に属する働き方、属さない働き方。

色々あるはずだ。

時代の流れからして、ロボット、AIに代替される労働集約性の仕事は減っていくことを考えると、男性も女性も、必ずしも企業に属する人の数がこれからも増えていくとは思えない。

 

男であるとか、女であるとか、

日本人であるとか、アメリカ人であるとか、

そういうことは、それはそれで、区別としてはあるけれど、ただそれだけのこと。

 

機会の平等。

それが大事だと思う。

そして、挑戦したいと思える、そういう機会を作り出すという事が大事だと思う。

 

そして、私は、挑戦する人を応援したい。

全力で、応援したい。

私も、一緒に頑張りたい。

 

そう、管理職をやって気が付いたこと。

私は、人を応援するのが好きだ。

そして、人を応援するのが、結構、得意みたい。

 

 

 

 

「日本精神の研究 人格を高めて生きる」 by 安岡正篤

「日本精神の研究 人格を高めて生きる」
A study of the Japanese Spirit
安岡正篤 著
平成17年1月8日第1刷発行 (2005年)
致知出版社

 

東洋思想を研究している知人からの薦めで手に取ってみた。

図書館の本。


なんと全編にふりがながついている。
2005年に編集し直されて発行されたものだが、元の発行は1924年大正13年のもの。文章自体は、古い文体のまま。
○○ねばならぬ。
○○するのである。
○○たらしめる。
と、史実に基づいた、あるいは思想に基づいた、断定的な表現と、
○○と思う。
と、自身の思想を提案するかのような表現。


内容は難しいものの、文章は地に足が付いたというのか、リズムよく、読みやすい。

あいまいなところがなく、時代背景として戦前であることから思想としては、朕即国家といった現代にそぐわないもののあるが、大半は今に続く思想の原理原則の提案となっている。

 

しっかり、読み込むには、多くの時間が必要そうだ。

今回は、本書の全体を把握するという目的で、読んでみた。

 

安岡正篤は、1898年2月13日大阪生まれ、陽明学者である。幼い時に「大学」の素読をされた。やはりこの時代は「素読」なのである。
本書は、 初版の一部を削って、山鹿素行吉田松陰高杉晋作高橋泥舟楠木正成、大塩中斉、西郷南洲宮本武蔵などの人物を加えた昭和12年の増補改訂版を基にしたもで、安岡先生の没後20年に、息子さんの安岡正泰さんが、まとめられている。


産業革命がおこり、物質文明が発達し、人が機械化してしまったことを安岡先生は嘆いている。人の機械化は人格の破綻をもたらしている。人が商品化され、物欲的生活が時代の流れとなる。 物欲にまみれた人間的生活を見直して、人格的生活を取り戻そう、というのが伝えたいことだったと思う。

 

安岡先生をして、思考のよりどころとしているのが歴史上の人物である。


やはり、歴史に学ぶというのは大事だし、歴史しか前例を示してくれるものはない。

その史実をどうとらえるかが、各人の思考にしどころだろう。


自己判断のよりどころのために、歴史を学ぶという事の大切さを、改めて考えさせれた。
日本の歴史も、世界の歴史も、今一度学びなしてみよう。

 

山鹿素行は、林羅山という朱子学の師匠につきながら、陽明学を切り開いていった人。山鹿素行の士道論の三つの軸は、
「道を志すこと」
「己の職分を知ること」
「その所志を勤行すること」


物の上に生きずして、醇正なる精神に生きる人の目指すべき軸。


唯物的機械的文明にまみれて、法律や経済といった知識を得ることで満足するのではなく、醇正なる精神に生きる人は、生きる本(もと)に立っている。
人格涵養をめざしたのが士道論。


そのために山鹿素行は、心術論として、養気・義利・志気・度量・安命・清廉・正直・剛操・風土・温藉、を説いている。


一つ一つ、私自身の理解が追いつかないだが、精神論のようにも思うが、実行が伴わなければいけない、ということ。

 

本書全般を通じて、難解な内容であるのだが、いくつかの言葉を覚書としておきたい。


「死の覚悟なき真の生活はない」


「自由とは自己の行為が自己の人格にその原因を有し、何か他に律せられることなき状態を言う」


「 諸外国で行われる革命と日本のとを区別するために、わざと「革命」の語を忌んで改新とか維新とか言うのである。」 (海外では、革命というのは王を追放することだが、日本において天皇を追放するということはありえない、という文脈のなかで)

 

「悪と悪者とが同じではないことを弁(わきま)える。」


「創造的な人格活動こそ価値がある」

 

先日、参加した「7つの習慣」の読書会のなかで、人格はどうやったら高められるのだろう、という質問をした人がいた。人格は、高めようと思って高められるものなのだろうか? というのが、私自身の疑問。

そもそも、人格とは何か?

「道を志すこと」
「己の職分を知ること」
「その所志を勤行すること」

という、「知行合一」の実践をしていくなかで、人格はできていくものなのではないか?_

という気がしてきた。

 

そもそも、人格というのは、自分で「人格を高めました」とか言う性質のものではないし、「人格を高める」という事を目標にするものでもない気がする。

 

人格:Personality

 

じつは、難しい言葉だな、と思う。

 

陽明学、よくわからないけど、もう少し、触れてみたいと思う。

先日、とある大学生が、「山鹿素行はわかりやすい」と言っていたので、山鹿素行から勉強しなおしてみようかと思う。

 

 

 

 

 

「君たちはどう生きるか」 by 吉野源三郎

君たちはどう生きるか

吉野源三郎 著
マガジンハウス
2017年8月24日第1刷発行


もともとは、1937年昭和12年7月に発行された本。
戦前に発行された本ではあるが、戦後にも売り続け、そして皆さんご存知のように今でも売れている。戦後に、文部省の定めに応じて漢字や仮名遣いが修正されている。1967年にも再度修正されて現在のタッチになっているということ。今回読んだ本は、マガジンハウスから2017年に発行され、池上彰さんの解説が冒頭についていることから、売れに売れた本。


著者の吉野源三郎さんは、1899年(明治32年)生まれ。1981年に82歳で亡くなられている。児童文学者であるとともに編集者として手腕を発揮したことで知られている。一旦東京帝国大学経済学部に入学するが、哲学への思いがつのり、文学部哲学科に移る。社会主義系の団体に出入りしたことから1931年昭和6年には治安維持法違反で逮捕されている。この経験から第二次世界対戦後は、いわゆる戦後民主主義の立場から反戦運動に取り組む岩波書店の雑誌世界の初代編集長を務め、岩波少年文庫の創設にも尽力した方。

(本書の中の、池上さんの解説の一部を引用)


この時期は、日本が日中戦争の泥沼に入っていく時でリベラルな考えの人が弾圧されたような時代。
そんな時だからこそ自分の頭で考えられる子供たちに育てたいそんな想いからこの本が書かれたということ。

 

実は、2017年、その時には、私は本を手に取らなかった。
気になっていたけれど、取らなかった。
心に余裕がなかったのかもしれない。

 

そして、今回、50代で、初めて読んだ。

たまたま、他の本を探していた図書館の棚で、目に入った。

「あ、もう、予約しなくても借りれる本になっていたんだ・・・」

借りてみた。


本当に、良書だった。
内容も素晴らしいのだが、本の構成がいい。

本当に、こういう本を書いてみたい、と思うくらい、素晴らしい。


以下、ネタばれあり。


主人公の15歳、コペル君をめぐる日常のストーリー。そしてお父さんを亡くしているコペル君にとっての相談相手である、叔父さんとのやり取り。叔父さんはコペル君に伝えたいことを、会話の中で伝えるだけでなく、Noteに書き綴り、後にコペル君にプレゼントする。


一から十のストーリーがあるのだが、その中に織り込まれているのは、人としての生き方を考えることに行きつくのだが、その導入ストーリーがそれぞれ素晴らしい。デパートの屋上からみた銀座の町並み、学校でのいじめ、ニュートン(物理の法則)、友人の貧困、ナポレオン(英雄の栄光と没落)、ガンダーラーの仏像、などなど。極めつけは、コペル君自信の失敗、卑怯者。

 

哲学的な学びだけでなく、広くリベラルアーツを学べる本だと思った。

ナポレオンのくだりでは、ナポレオンの栄光と没落の20年を引用して、

「自分の権威に驕るな、謙虚であれ」

という教えがメインテーマだけれど、歴史の勉強にも興味をそそられる。

 

事実、私自身は、今、ちょうど「ボナパルト」に興味持っているので、それより先に、「ナポレオン」を、あの時代の「ヨーロッパ」を今一度学びなおしてみようと思った。

中学や高校で、まじめに歴史を勉強してこなかった私にとって、今、歴史を学ぶのは楽しくてしょうがない。

もっと、歴史を学べ、と、この本が言ってくれている。

 

ガンダーラの仏像も、先日、「古寺巡行」を読んで、仏像・観音様にあいにいきたい、と感じていたところだったので、あぁ、博物館、予約しよう。。とリマインドしてもらった。

megureca.hatenablog.com

コロナで、ふらっと美術館や博物館に行けなくなってしまって不便だが、その分、待たずに観れるはずだから、暑いけど、この夏に行ってこようと思った。

 

外のカフェで読み始めたのだが、涙があふれて仕方がないので、半分読んだところで、あきらめて自宅に帰って続きを読んだ。

 

卑怯者、の項は、号泣。

コペル君は、友達が上級生から暴力を受けそうになったら、みんなで闘うと約束していたのに、いざ、その時が来たら、動けなかった。。。ほかの2人は約束通りに友達を守ったのに、自分は遠くから見ているだけで、足がすくんで出ていけなかった。

そして、そのまま風邪をひいて寝込み、裏切り者の自分に、卑怯者の自分に、なんとか言い訳してみたり、そんなことをしても、卑怯者であることには変わりはなく、、、。

コペル君は、寝込んでいる蒲団の中から、叔父さんに相談する。

 

叔父さんの言葉。

「また、過ちを重ねちゃいけない。コペル君、勇気を出して、他のことを考えないで、いま君のすべきことをするんだ。過去のことは、もう何としても動かすことはできない。それよりか、現在のことを考えるんだ。いま、君としてしなければならないことを、男らしくやっていくんだ。こんなことでーーーーコペル君、こんなことでへたばっちゃぁダメだよ。

さ、元気をだして、北見君たちに手紙を書きたまえ。正直に君の気持を書いて、北見君たちに許しを請いたまえ。」

 

素直」が、一番大事。

そいういう事。

 

謝っても、友達がゆるしてくれないかも、なんて、考えてもしょうがない、と叔父さんは言う。今、自分がやるべきことをやる。謝る。

 

大人の世界も、同じ。

自分の過ちを認めることは、もしかすると大人になるほど難しくなるのかもしれない。

でも、素直であること。

ちゃんと、ごめんなさい、を言える大人でいよう。

もちろん、ごめんなさい、が必要な過ちを犯さない方がいいけど、

人は、ミスを犯すもの。

 

「ありがとう」と、「ごめんなさい」は、本当に大事だ。

 

君たちはどう生きるか

50を過ぎても、問い続けなくてはいけない言葉だと思う。

「ありがとう」がたくさんの人生にしたいと思う。

 

吉野さん、良書をありがとうございます。

 

読書は、楽しい。

学びは、楽しい。

 

 

「地球の法則と選ぶべき未来」 by ドネラ・ H・ メドウズ

「地球の法則と選ぶべき未来」 ドネラ・メドウズ博士からのメッセージ
ドネラ・ H・ メドウズ 著
枝廣淳子
ランダムハウス講談社
2009年7月29日第一刷発行

 

ドネラさんの本であり、枝廣さんの訳なので、図書館で借りてみた。


ドネラ・ H・ メドウズさんは、アメリカの環境科学者。ダートマス大学環境研究プログラム助教授として、コンピュータモデルを使って社会、環境、エネルギー、農業などのシステムを研究した方。枝廣さんの訳本に、「世界はシステムで動く」がある。2002年に亡く亡くなられているのだが、枝廣さんが、彼女のメッセージを伝えたいという思いで、2009年に出版されたのが本書。


いくつかの彼女のエッセイ集のような感じ。


ドネラ さんの言葉には、ハッとさせるものがたくさんある。
本書の中に出てきたきたものも、いくつか覚書として残しておきたい。

 

「危機に瀕しているのは地球ではなく、私達の考え方である」


「私たちは自分たちをコントロールできるのか?」


「境界線は心の中にある」


「足るを知る」


「科学ははっきりさせるのに役立つ。何をすべきかを決めるのには役立たない。」


「科学者の仕事とはすべての選択肢をできるだけ完全に明確にそして客観的に説明するということです。選ぶのは科学者の役割ではなく私たち全ての仕事です。」


「良いことも悪いことも全てのものはつながっている。それがシステム。」

 

つまり、選ぶのは私たちなのだ。

 

科学、 科学者に関するくだりは強く共感する。
原子爆弾を作った アインシュタインもきっと共感すると思う。


科学は科学であり、技術は技術であり、それをどう使うか、選ぶのは私たちなのだ。

専門家でもない。

専門家はただしい情報を提供する責任がある。

選ぶのは私たちなのだ。


そして、選ぶためには、科学だけでなく、感情も大切。

自分自身の感情に蓋をしないということも必要。

「自分の心に蓋をしない勇気を」とも言っている、
(でてきたぞ!「勇気」)

megureca.hatenablog.com


「何をすべきか」決めるためには、少しばかりの「感情」「価値観」あるいは「常識」のようなものが必要、と、彼女は言う。


感情も知識も直接何かを変えることではないけれども、どんなに不快な感情があったとしても(環境保全のために便利な電化製品の使用を控えるのはいやだとか)、それを受け入れ、分かち合い、何が間違っていて、どうすれば修正できるかという「知識」と合わせて、「感情」と「知識」が一体となって変化を起こしていかなければいけない。

環境問題論争は、科学と感情を総動員して行く必要があると、彼女は言う。

 

 

冒頭で、枝廣さんがドネラさんが伝えたかった「私たちに必要な5つのこと」をまとめてくれている。


「ビジョンを描くこと」
「ネットワークを作ること」
「真実を語ること」
「学ぶこと」
「愛すること」

 

 これは、環境問題に限ったことではないだろう。

 

そして、「フィードバック」が大事であるという。
真実を語るには、真実を知らなければいけない。
人々は、自分の行動が生み出した結果について、正確で説得力のあるフィードバックが必要なのだ。
結果を自覚することでそれに伴う責任を自覚できる。
真実を知るためにはフィードバックが必要。

 

枝廣さんの著書「好循環のまちづくり!」で、「先行指標」と「遅行指標」の両方の必要性が語られていたが、正しい指標をフィードバックするというのは、本当に大切、だけど難しい。

megureca.hatenablog.com

 

今日、家のクーラーの温度を1℃上げたことで、どれだけ温暖化ガスの発生をおさえられたのか?そして、それが5年後の地球の温度に、どうつながるか?

今日、スーパーのレジ袋を使わないことが、どれだけ環境負荷をさげたのか?

買ったお弁当のプラスチックごみのほうがよっぽど大きいけど?

今日、車に乗ったことで、どれだけ環境負荷をかけたのか?

徒歩と電車で行けば、ガソリンは使わずに済んだのでは?

 

スーパーのレジ袋をエコバックに変えるより、はるかに効果的な行動はあるとおもうけど、それが正しくフィードバックされない。

チリも積もれば、、、とはいうものの、環境負荷インパクトの大きい行動を一つ感が直した方が、よほど効果はあるはず。

そのフィードバックがあればいいのに、と思う。

 

家庭の電気使用量を、金額でいつでも目に入るようにすると、自然と電気料金は下がる傾向にあるという。

 

行動結果のフィードバックは本当に大切だと思う。

いいことも、悪いことも。

毎日体重を測っていれば、ある日突然5キロ太ったりはしない。

 

世の中、もっとフィードバックの仕組みを作れないだろうか。

「完全に、明確に、そして客観的に説明」できるフィードバックの仕組みを考えるのが科学者の責任ではないだろうか。

エコな製品の開発と共に、それを選ぶことの結果がみえるといい。

見える化の重要性。

ハイブリットカーで、燃費が常に見える化されているように。

 

 

ただ、フィードバックは、与えられるのを待つのではなく、自分で取りに行く方がよい気がする。

 

人から言われても他人事だけど、自分で調べると自分ごとになる。

そんな気もする。

 

2021年7月、日本の熱海では土石流が、ドイツのラインライントでは洪水が、アメリカ米西海岸カリフォルニア州北東部では山火事が、、、、。

いずれも、地球温暖化とは無関係ではないだろう。

 

他人事ではない。

私も地球人だ。

未来の話ではない。

今の地球で起きていることだ。

 

今、私は何ができるか、考えなくてはいけない。

少しばかりの勇気をもって、自分の感情にふたをせず、考えてみよう。

 

私は、環境活動家ではないし、必ずしも環境活動家のいう事に100%同意するわけでもないけど、

「危機にあるのは私たちの考え方である」

という、ドネラさんの言葉を胸に刻んでおこう。

ちょっとくらいいいか、、、と思わない勇気。

でも、ストイックにやりすぎない、、、勇気。

人に強要するのも最悪。

自分で自分の行動を律する勇気を持とう。

 

やはり、勇気は大切だ。

 

 

 

「勇気を失うことは全てを失う」”Without courage all other virtues lose their meaning.” by  Winston S. Churchill

「勇気」とは何だろうか?

 

とある本を読んでいたら、 Winston S. Churchill (ウィルストン・チャーチル)の言葉が引用されいた。

働き方改革にかかわるような本の中で。

以下、引用。

チャーチルの名言の一つに、『金を失うのは小さく、名誉を失うのは大きい。しかし勇気を失うことは全てを失う。』とあります。働くものの勇気は日本の産業の大きな底力となっているのです。」

とあった。

働く者の勇気って何だ?

 

文脈から、どういう勇気のことを言いたいのかよくわからなかったのだが、チャーチルの言葉そのものが気になった。


チャーチルがどこでどう引用したのか調べてみたくなった。
第二次世界大戦中に首相となり、英国の戦争を主導、ヒトラーから世界を救ったといわれるチャーチル

”Never, never, never, never give up.”

は、聞いたことがある人が多いと思う。

 

その彼の名言集はたくさんあるけれど、どの場面で、どのように発言したことなのかまでは、ネットでさっと調べただけでは調べきれなかった。


ただ、似たような違うものがでてきた。
「金を失っても気にするな。 名誉を失っても、まだ大丈夫。でも、勇気を失ってしまったら全て終わりだ。」

 

原文をさがしてみたけど、出てきたのは、
Without courage all other virtues lose their meaning.

 

重要なのは、最初の、お金とか名誉のはなしより、「勇気」の話。

 

「勇気」って、なんだろうか?

 

広辞苑によると、

勇気 ゆうき: いさましい意気。物に恐れない気概。

 

ロングマン 現代英英辞典

courage : the quality of being brave when you are facing a difficult of dangerous situation, or when you are very ill.

 

前に勤めていた会社で、社長が「最近、勇気をもって行動をしたことがありますか?」と経営会議で発言して、同席した社員たちがざわついたことがあった。
「勇気って?? 社長の気に入らないことをいうってことか?」

とか、

「勇気って??あなたが社員の勇気をうばっているんでしょう。」

とか、、、、。

 

「勇気」って、わざわざ

「勇気をもって頑張ります」

とか、

「勇気をだして頑張りました」

とか、、人に宣言するためにある言葉ではなく、

「勇気をもとう」と、心の中でつぶやくことのような気がする。

 

そう、確かに、「勇気」を失ってしまってはすべてを失う事と等しい。

「勇気」があるから、新しいことに挑戦できる。

「勇気」があるから、空気にのまれない。

「勇気」があるから、さよならが言える。

「勇気」があるから、選択できる。

 

毎日、「勇気」を振り絞っていると疲れちゃいそうだ。

「勇気」は、自分のなかにそっと持っていればいい。

時々、「勇気」をとりだして、使ってみよう。

 

今日の私の小さな「勇気」は、しばらく連絡していなかった知人に連絡すること。

何かが始まるかもしれない。

 

勇気から始まる、小さな物語。

そんな小説を読みたくなった。

「勇気」は、人・本・旅、からもらえるものでもある気がする。

そこらへんにこぼれている「勇気」の元を探してみよう。

「勇気探しの旅」を楽しむのも悪くない。

 

 

 

 

 

 

 

世界遺産に登録されるという事

今、世界遺産の登録を決める国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が、開かれている。

コロナの影響で、オンライン形式で開かれるらしい。

7月16日~31日。

 

今回は、日本からは、

奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島

「北海道・北東北の縄文文化遺跡群」

と、南と北とから、2候補が登録されそうとのこと。

喜ばしいこと、なのだろう。

 

実は、日本ソムリエ協会の教本でワインの勉強をしていると、各国の歴史もたくさんでてきて、そのなかで、ボルドーの市街区域(2007年)や、サンテミリオン(1999年)の登録なども、学ぶことになる。もう、その辺の記憶は怪しい・・・。でも、勉強中に、世界遺産に登録されているワイン畑関係の場所はたくさん出てきて、行ってみたい、と思っていた。コロナでそれもかなわずにいるままだけど・・・。

 

世界遺産も、文化遺産と自然遺産があったよな、と思ってちょっと調べてみると、2005年にすでに、統一されていたのね。。。

あまり、気にしていなかったので、知らなかった。

 

ユネスコのHPに、書いてあった。

https://www.unesco.or.jp/activities/isan/worldheritagelist/

※なお、世界遺産の登録基準は、2005年2月1日まで文化遺産と自然遺産についてそれぞれ定められていましたが、同年2月2日から上記のとおり文化遺産と自然遺産が統合された新しい登録基準に変更されました。

 

まぁ、世界遺産に登録されるまで、知らなかったところを、これを機会に知ることになるのは良いことなのだと思う。

しかし、私自身は、世界遺産になったから、といって旅行に行ったことはないなぁ、とふと思う。

観光客は増えるだろうし、経済がまわって、その土地の活性化につながるのは良いことだ。

ただ、世界遺産に登録するために、見学の通路をつくったり、バリアフリーにするための対応をしたり、ちょっと、複雑な気もする。

 

世界遺産じゃなくたって、素晴らしい場所はたくさんある。

ちょうど、昨日、知人が「浄土ヶ浜」からの美しい写真を送ってきてくれて、あぁ、震災から10年、一度も足を運ばなかったな、、、と、被災地を旅先に選んでこなかったな、と、少し心が痛くなった。

別に、悪いことではないのけど。。。

復興支援活動で、なんどか東北に足を運んだけれど、そのたびに、震災前の美しい自然が、人工的な浜に置き換わっていくのを、少し複雑な気持ちになってみていた。生活再建が大事だし、必要なのはもちろん理解しているけれど、見渡す限りの堤防のような場所に、工事車両だけがある景色、、、、。心がさみしくなった。

 

世界中の人が、自由に旅することを制限されている。

東京2020で、日本に来ているアスリートも、せかっくなの機会なので観光は許されないようだ。街に出て、地元の人との交流も楽しみたかろうに。。。

 

世界遺産でなくたって、素敵な場所はたくさんある。

世界遺産に登録されるという事は、世界に認められるということ。

世界にみとめられなくたって、自分がきめた自分遺産があってもいい。

規模の違いかもしれない。

規模の違いは、経済的にはインパクトの違い。

経済を考えれば、世界に認められるのは良いことだ。

が、それは自分の幸せとどれだけ関係性があるのか?

それは、ひとそれぞれ。

 

久しく、旅に出られていない。

浄土浜も、学生時代に一人旅で回ってから、、、もう30年以上、足を運んでいない。

沖縄は、3年くらい前のゴルフ旅行が最後か。

北海道も、縄文文化という視点では旅していない。

 

 

旅にでるきっかけになるという点で、世界遺産に登録されるというのはやっぱりうれしいことだ。

一方で、自分の中の自分遺産も、大切にしたいと改めて思う。

 

旅に出よう!

人・本・旅だ!

megureca.hatenablog.com

 

 

コロナが落ち着いたら、旅に出よう。

世界遺産じゃなくても、自分の中の素敵な場所に会いに行こう。

 

旅に出れない今は、、、、

本だ。

 

人・本・旅!