映画:レジェンド&バタフライ

映画:レジェンド&バタフライ

制作会社: 東映京都撮影所

主演:木村拓哉綾瀬はるか
脚本:古沢良太 

監督:大友啓史

映画『レジェンド&バタフライ』公式サイト|大ヒット上映中

 

観てきました。そんな予定はなかったのだけれど、あ、今日は映画安い日だ、、、と思ってちょうど時間がよかったのが、本作だった。予告編をみたときに、綾瀬はるかちゃん、かわいいなぁ。。。。キムタクかぁ。映画館でみてもいいなぁ、、、とおもっていたので、観てきた。

 

東映創立70周年記念作品。フラッとはいったら、なんと3時間の大作だった・・・。

 

織田信長濃姫の物語。歴史としては、濃姫斎藤道三の娘で政略結婚だったこと、信長は本能寺の変で自害の最後を遂げるというのは、ネタバレというまでもなく、皆さんご存じのとおり。その歴史背景における、ふたりのラブロマンスって感じかな。

 

感想。

やっぱり、綾瀬はるか、かわいい。そして、乗馬する姿や、立ち回りが様になっている。もう、すっかりこういう作品得意だなぁ、って感じ。『八重の桜』や、『精霊の守り人』の時もかっこよかった。時代劇、というか剣士の綾瀬はるか、好きだ。

 

信長を演じる木村拓哉も、やっぱりキムタクはキムタクでかっこいい。

 

以下、ちょっとネタバレあり。まぁ、歴史事実は変わらないけど。

 

政略結婚で、輿入れのその日に立ち回りの大ケンカ。そういう二人が、信頼したり、突き放したり、そうして最後は本当の夫婦になっていった、ってそんなラブストーリーだった。歴史ものとおもってみると、ちょっとがっかりする。あまり、勉強にはならない・・・。

 

歴史的場面は、一応、年号や戦の場所が字幕として出て来るけれど、戦の相手はほとんど出てこない。キャストにもなっていない。

 

4万の軍勢でおしよせてくる今川軍。軍議を開いても結論をだせないダメ男の信長。濃姫は、敵は勝つと思っている、それが敵の弱点、そして明日は雨が降るから人馬の音は敵に気づかれないはず、といって信長の背中を押す。桶狭間の戦い。かの有名な桶狭間の戦いも、出陣したと思ったら勝って戻ってくるので、今川義元は出てこない。

 

浅井長政の裏切りも、長政は出てこない。お市もでてこない。

どこまでも、二人の恋の行方はいかに?!?!って感じ。

 

いつも、ケンカ腰の二人だったが、道三が亡くなったときに、自害しようとした濃姫を「おぬしの役目は、わしの妻じゃ」と言い放ち、手刀を濃姫から取り上げ、命を守った信長。

 

信長は南蛮物に魅せられていき、ワインをたしなむ姿がでてきたりする。また、ラストシーンで重要な小物となるのは、信長と濃姫がこっそり市中にでかけたとき、市でかった置物。信長が、濃姫が欲しそうにしているのをみて、買ってあげたもの。青銅の香炉みたいに見えたけど、何かはわからない。ただ、カエルをモチーフにしたもので、上洛するために本能寺にむかった信長に、濃姫が渡すのだ。

 

二人は、市中で買い物をしたり、南蛮人の演奏や踊りをみて楽しむのだが、信長がせっかく買った金平糖を子供にすられ、その子供を追いかけていったことで流民のような集落で切り合いの事態となる。濃姫も信長と一緒に、何人もの人を切り殺す。。。命からがら集落を逃げ出し、隠れた小屋で二人ははじめて?結ばれる。

 

濃姫は、その時?の子供を身ごもるのだけれど、その子は死産となってしまう。それは、信長が天下布武のために戦に明け暮れている間の事だった。そして、比叡山焼き討ちなど、殺戮を繰り返す信長。苦しむ信長と、それを見ているのが苦しい濃姫。信長にしてみれば、「父さんと天下を取るのが私の夢だった」という濃姫の夢をかなえているつもりだったけれど、気が付けば、泥沼の殺し合いになっていたのだった。

 

濃姫は、自分が信長に惹かれていくことを自覚しつつも、信長が自分のことを好いていないと思い込んで苦しむ。そして、自分から離縁を言い出す。あっさり認めた信長だった。。。

だが、濃姫が駕籠で去っていくのを館からみている信長は、とっさに叫び出しそうになるのを、刀の柄を口にくわえて、耐えるのだった。。。

 

そして、山里で静かに家臣(伊藤英明が演じていて、これがかっこいい)と暮らしていた濃姫だったけれど、病気で弱ってしまう。見かねた家臣は、信長の元に濃姫の命が危ういことを知らせに行く。すぐに濃姫のもとへ駆けつける信長。そして、安土桃山城にきて病を癒せばいい、わしのそばにいてくれ、、、といって、濃姫と復縁するのだった。信長にそう言わしめた、濃姫の付き人役の中谷美紀がこれまたいい。。おもわず、もらい泣きしてしまうシーンだった。

 

本能寺の変の前、病で床に臥せっている濃姫だったけれど、出かけようとする信長に、「これをずっともっていたから、私はあなたの元に戻ってくることができた。だから、、、」といって、例のカエルを信長に持たせる。信長はもどってきたら、もう自分の戦はやめる。あとは家臣にまかせるから、二人で異国にいって名前も家もすてて自由に暮らそう、というのだった。

 

そして、本能寺の変明智光秀は、魔王だったはずの信長が濃姫といることで魔王でなくなってしまった、もう天下を取るべき人ではない、と思いつめ、謀反を起こすという筋書き。

 

そして、寝込みを襲われ、わずかばかりの家臣と共に戦う信長。だが、側近として大事にしていた蘭丸も敵の刀に倒れてしまう。もう、火の回り始めた寺の奥へ奥へとすすむ信長。そして、最後に夢をみる。懐からだした濃姫のカエルを左手に、じっと見つめていると、その視線の先の床に抜け道があることを見つける。そして、そこから抜け出し、濃姫の元に戻り、二人で南蛮船で異国へ渡る・・・と。とそんな幸せそうな二人の幻想から覚めると、火の中。手にあったと思ったカエルはそこにはなく、、、最後を迎える信長。

 

信長に火の手が迫っているとき、濃姫は、一人でそっと息を引き取る。信長の最後を知らずに・・・。

 

信長、自害。。。

THE END

 

本能寺の変で、信長は死んじゃうってわかっているから、がっかりはしないのだけれど、、、、やっぱり、寂しい。幸せなハッピーエンドにしちゃえばよかったのに、、、なんて思った。

 

明智光秀をそそのかすような、徳川家康がでてくるのだが、ほんのワンシーンなんだけど、なんだかすごい存在感。だれだろう???とおもってエンドロールをみていたら、斎藤工だった。特殊メイクをしていたのだろう。ぷくぷくほっぺの家康だったから、まったくわからなかった。でも、目がすごい演技だった・・・。目だけで存在感、、、。

北大路欣也斎藤道三の眼力もすごかったけど。

 

時代劇のラブストーリー。信長を愛した濃姫は、信長の最後を知らずに息を引き取る。それがすくいかもしれない。

 

まぁ、大変なエンターテイメント映画。合戦のシーンは、やっぱりえげつない・・・。好かんわ・・・。って感じだったけれど、濃姫は、、、綾瀬はるかはかっこよかったなぁ。。。刀をもっても、弓をもっても、馬に乗ってもかっこいい。

最後、幻想のシーンでは、信長と濃姫が二人乗りで馬で走る姿が凛々しい。お尻痛そうだなぁ、、なんておもいながら、眺めた。

 

時代劇で馬に乗っている役者のみなさん、すごいなぁ。。。

 

3時間のエンターテイメント。おもしろいけど、長いので、時間に余裕をもってご観覧ください、、、って感じ。

ふらっと見に行くには、時間をとられすぎた。。。けど、綾瀬はるかちゃんの可愛さにめんじてゆるしちゃう。

 

おもしろかった。

 

日本史の教科書にでてくる織田信長にまつわる出来事、ちょっとだけ覚書。

織田信長尾張の武将

1560(永禄3)年:上京を企てて進撃してきた駿河今川義元の大軍を桶狭間の戦いで破る。

1568(永禄11)年:京都にのぼって足利義明を将軍にたてる。

比叡山延暦寺、石山(大坂)の本願寺と戦って寺院勢力を抑える。

1573(天正元)年:信長の命令に従わなくなった今川義明を京都から追放。室町時代の滅亡。

近江の浅井氏と越前の朝倉氏を亡ぼす。

1575(天正3)年:甲斐の武田勝頼三河長篠の合戦で破る。

・交通の要所である近江に安土城を築き、全国統一の拠点とする。

・楽市・楽座の制をすすめて、領国内の経済力を強める。

・道路改修、関所の廃止などで、物資運搬の便の向上を図った。

1582(天正10)年:毛利攻撃のために安土城をでて、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて死亡。本能寺の変

 

戦国時代は、ネタとしてはやっぱり面白い。

 

 

 

 

 

 

『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』 by  西岡常一 薬師寺宮大工棟梁

木に学べ 法隆寺薬師寺の美
西岡常一 薬師寺宮大工棟梁
小学館
1988年3月1日 第一刷発行

 

あぁ、これこそ、本当に本当の本だ。。。読み終わって、思わずニンマリしてしまう、著者に、出版社に感謝したくなる一冊。

 

知り合いが『ボイジャーに伝えて』が良いという話をしていた時、好きな本の話題で盛り上がった。そのときに、小林秀雄に詳しい友人が良いといったのが、本書『木に学べ』で、『ボイジャーに伝えて』を紹介して下さった方も、「あー、あれはすごくいい、西岡なんとかっていう宮大工の人の本」といっていたので、ぜひにも読んでみたくなった。

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1988年の古い本。図書館で借りてみた。ずしんと厚みのあるハードカバーの単行本。ぱらぱらめくると、うん、写真もあって、中は西岡さんの奈良弁の語り口のまま。なんとも魅力的な一冊。一瞬にして、あぁ、これは、素敵そう、、、と感じた。

そして、もう、読んでいて、うんうん、、そうかそうか、となんどもうなずいてしまった。へぇ~~こういう本があったんだ、なぜ今まで出会わなかったのだろう、と思った。

 

著者の西岡さんは、1908年生まれ。法隆寺棟梁西岡常吉の孫として誕生。法隆寺薬師寺宮大工棟梁。1988年、本書の出版時には80歳。16歳から祖父を師に大工見習をはじめ、1934年に初めて東院礼堂解体修理で棟梁となる。その後、法隆寺文化財保存事業、薬師寺金堂の再建、西塔再建など。。。とにかく、宮大工のすごい人。

 

読めばわかる。日本の木造建築の理にかなったすばらしさと美しさ。そして、それを守り伝えていくことの大切さ。西岡さんの、 関西弁混じりの柔らかな語りで綴られる文章はそれだけでも美しく、力強い。読んでいて、そうです、その通りです、おっしゃる通りです、と頭を垂れずにいられないという感じ。そして、心地よい。長年の経験に基づいた、確固たる信念であり、確信。揺るがない。まさに、世界最古の木造建築、法隆寺のような存在感。
言葉の一つ一つに、西岡さんの確信が充ち溢れている。自分の発する言葉に、逃げ道を作っていない。かっこいい。。。

 

本の内側に、法隆寺伽藍図、薬師寺伽藍図があるのだが、手書きだ。筆でかかれた手書き。これだけでも芸術作品のよう。法隆寺のカラー写真も、昔ながらのフィルム写真の色。やっぱりデジタルとは何か違う。くっきりしすぎていないところだろうか。読んでいるうちに、どんどん法隆寺薬師寺を訪れたくなる。

 

目次
第一章 千三百年のヒノキ
第二章 道具を遣う心
第三章 法隆寺の木
第四章 薬師寺再建
第五章 宮大工の生活
第六章 棟梁の言い分
第七章 宮大工の心構えと口伝

 

すべてが、西岡さんの語り。

”私に何か話す言うても、木のことと建物のことしか話せませんで。
しかし、いっぺんには無理やから、少しずついろんなこと話しましょ。”

と、始まる。
そして、
”棟梁いうもんは何か言いましたら、「木のクセを見抜いて、それを適材適所に使う」ことやね。” と。

”木というのは、まっすぐ立っているようでいて、それぞれクセがありますのや。自然の中で動けないんですから、生き延びていくためには、それなりに土地や風向き、陽の当たり、周りの状況に応じて、自分をあわせていかなならんでしょ。例えば、いつもこっちから風が吹ているところの木やったら、枝が曲がりますな。そうすると木もひねられますでしょう。木はそれに対してねじられんようにしようという気になりまっしゃろ。こうして木にクセができてくるんです。”
と。

1300年たってもちゃんと建っているのは、木のクセをちゃんと知ってつくっていたから。飛鳥時代の大工は、心から法隆寺を作りたくて熱心に作った。聖武天皇の時代に量産した国分寺はほとんど残っていない。大工がいやいや作ったからだ、と。

 

全部、こんな感じで、西岡さんの語り。

 

第一章では、樹齢1000年のヒノキを使えば、建物は1000年もつという話。だから、法隆寺は、1300年のヒノキで、1300年持っている。たしかに、すごいことだ。そして、ヒノキというのは、同じ緯度でも中国やアメリカにはないそうだ。日本、そして台湾にしかない。また、高さ50mの木には50mの根があるという。そんな貴重なヒノキだが、日本にはもう樹齢1000年のものは無く、西岡さんは台湾までヒノキをもとめていかれたそうだ。

 

西岡さんの言葉が胸に響く。
”みんな生産、生産ということをよく言いますけど、鉄を生産した、石油を生産した言うても、あれは地球の中から出しただけですが。ですけど農山林資源はほうとうに作り出すんや。太陽の光合成でね。一粒の米から何十石という米ができるんや。それなのに日本は工業立国なんていいますが、工業じゃ立国できません。農業立国やないとあきまへん。でないと滅びます。アメリカはそれをよう知っとる。自分の農業守るためにオレンジ買わし、小麦買わしてる。日本は工業立国で自動車こうてもらわんといかんというとるけど、これはどういうことやと思います。日本の血と脂を売っているようなもんです。自然を忘れて、自然を犠牲にしたらおしまいですね。自動車売って儲けてお金を農山林業にかえさんと自然がなくなってしまいます。”

たしかにマイニングは、生産というのとはちょっと違う。土地を耕しても土地を生産したとは言わない。鉱物を掘りだして生産したといって換金するのは、確かに価値創出ではあるけれど、、、、物質生産ではないんだな。うむむ。

 

第二章では、さまざまな大工道具の話。道具を大事にしなさいというは当たり前の話だが、弟子が独立するときは、師匠より良い道具をもたせるそうだ。そして、その道具をもって 立派な仕事が出来ないわけがないだろう、というプレッシャーになるのだと。ヤリカンナという道具の話が最初にでてくるのだが、なにかとおもったら、ヤリの形をしたカンナ。柔らかな木面を作ることができるのだが、良いヤリカンナをつくるには良い鉄が必要で、高炉でつくったような鉄ではだめなのだそうだ。
和釘は、西洋の釘のように、丸い頭がない。でも、頭がなくても抜けないように、しっかりと木と結びつくのだそうだ。和の技術、おそるべし。
斧には、三つのスジあるいは四ツのスジが刃のところにきざまれている。3本はミキといって御酒。4本はヨミといって、「地水火風」。こうした刻みをいれた斧を、木を切る前に、その木にもたせかけて拝むのだそうだ。「これから木伐らせてもらいます。ありがとうございます。」って。本来ならお酒や五穀を備えるところが、山の中だからこういう形にしたのだろうと。今の鍛冶屋さんも使う方も、なんで斧に刻みがあるのか知らない、と。
電気ガンナは、回転するもの。あれは、切るのではなく、ちぎっている。電気ガンナで削ったモノは、ほっておいたら1週間でかびてくる。ヤリガンナなら、水がスッと切れてはじけてしまうそうだ。
切れない包丁できった玉ねぎは涙がでるけれど、良く研いだ包丁できると涙が出ないのといっしょかな。スパっときると、細胞がつぶれない。包丁も同じだね。

 

第三章では、法隆寺について。第四章では薬師寺について。法隆寺薬師寺とでは、時代が違う。法隆寺は、聖徳太子飛鳥時代に学問のために建てたお寺。一方の薬師寺は、法隆寺のおよそ50年後に聖武天皇が自分の奥さん、つまり中宮(のちの持統天皇)の病気回復のために建てた信仰のお寺。

二つのお寺の特徴を比べると、法隆寺は強く、薬師寺は強いものを優しくみせようとしている、と西岡さんは言う。仏像も、法隆寺のほうが怖い顔をしていて、薬師寺の方がやさしい、と。

法隆寺は、室町時代に改修された部分があり、それを飛鳥時代の建築部分と比べると、明らかに装飾的になっているのだそうだ。また、回廊の東西の長さが異なるのは、講堂を中心に五重塔と金堂を配したとき、より大きな金堂のある場所が狭く感じないようにさせるためだとか。伽藍というのは、回廊があって完成するものだという。

法隆寺の回廊の室町時代飛鳥時代の作りの違いの見方。相輪の美しさ、夢殿がなぜ八角形なのか、宝珠の美しさ、地相にいかにあっているかなど、法隆寺の魅力がたくさん語られる。
法隆寺の五重の塔は、各階の四つの角の部分、隅木(すみぎ)が最上階までずー-っと一直線に並んでいる。木のクセをみて、ちゃんとつくっているからそうなのだそうだ。時代が新しくなって作られた塔はこうはいかないのだと。

中門の話では、梅原猛さんの「聖徳太子の怨霊が伽藍からでないようにするため、中門の真ん中に柱をおいた怨霊封じだ」という説を、そんなことはないんです、と全否定。仏教というものに呪いとかそんなもん、ありません、と。金剛力士(仁王)は片方が赤く、片方が黒い。人間は煩悩があるから黒い。中に入って、仏さんに接して、悟りを開いて出てくると赤くなる。中門の真ん中に柱があるのは、その入り口と出口をわけているのだと。

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薬師寺も同様に、金堂の装飾にペルシアのぶどう、ギリシャの唐草、インドのストゥーパ、中国の四神がかざりとして掘られていること、東塔は多くの改修を重ねているが、西岡さんが作り直した西棟は、東塔より創建時にちかいはずであることなど、こちらも魅力満載。
もしも台風や地震で西塔がたおれて、東塔が残ったら、「わたしは腹切って死ななきゃならん」と。匠の言葉におもわず、ふふふ。

薬師寺三蔵院の上棟式で西岡さんがあげた祝詞が紹介されている。
「三蔵院絵殿上棟祝詞、つつしみ、つつしみ、おそれみ、おそれみて申す。かけまくも、かしこ神代のいにしえ、たくみの道のとおつおや神たちの宮づくりのわざの、のりをはじめ給える。。。。。。。。」
おもわず、音読したくなる感じ。

西岡さんは、構造物は社会だという。斗、皿斗、柱、それぞれ個人個人。それぞれが自分の力を発揮して、組合わせて、崩れにくいものができる。なるほど。

 

第五章~七章では、西岡さんの宮大工としての人生論。宮大工としておじいさんに教えてもらった口伝など。
人の心がわからないようでは、人をたばねてはいけない」と。人の心をわかるようになるには、大工だけしていてはダメ。掃除、洗濯、子守り、、、母親からやかましいほどやらされたのは、すべてつながっていたのだと。”しまいには、寿司までまかされました”って。

そして、技術も技法も実際にやって覚えるものです、と。
”数をふまんとおぼえられません。法隆寺の修理・解体という大事業にあたってはじめて、わかったことがたくさんありますのや”と。

 

法隆寺薬師寺、どちらもじっくり訪れたくなる。 

なんとも、心が洗われるような感じの一冊だった。

 

やっぱり、経験するって大事だ。実際に経験せずにあれこれ言っても、言葉に重みがない。やっぱり、経験に裏打ちされた言葉って強いなって思う。

 

何歳になっても、経験は積み重ねることができる。毎日生きている限り、経験のチャンスはある。そのチャンスを自分のものにするかどうかは、自分次第。

80歳の心からの言葉は、ずしんと響いた。

 

いい本だった。

これは、どんな人にもかなりお薦め。

素直な気持ちで、はい、そうです、って読める。

 

読書は、楽しい。

 

 

『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』 by  大澤絢子

「修養」の日本近代
自分磨きの150年をたどる
大澤絢子
NHK出版
2022年8月25日 第1刷発行

 

2022年秋、日経新聞の書評で見て気にはなっていたのだけれど、 「修養」に対するちょっとネガティブっぽい本という感じがして、特に読みたいとは感じなかった。そして、2022年年末に銀座の教文堂で発行している「おすすめ本」のチラシの中に、本書を見つけた。二度も目に入ったわけだし、、、とおもって図書館でかりてみたら、すぐに借りられた。

 

著者の大沢さんは、1986年茨城県生まれ。茨城県立日立北高等学校卒業、お茶の水女子大学教育学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了。博士(学術)。龍谷大学世界仏教文化研究センター、大谷大学真宗総合研究博士研究員などを経て、現在、日本学術振興特別研究員(PD)・東北大学大学院国際文化研究特別研究員。専門は宗教学、社会学仏教文化史、とのこと。

 

表紙裏の説明には、
”明治からみんな「意識高い系」だった。

明治大正期に「帝大出」のようなエリートでなかった人々、昭和期にサラリーマンとして会社で研修に励んだ人々、ビジネス書や自己啓発の消費者となった若い人々。。。
彼らが拠り所にしたのは、あくなき向上への意欲だった。
本書は「教養」として語られ熱がちな自己成長のための営為が、実は明治初頭から宗教の力を借りて社会に広く行き渡り、近代日本の社会を根底で支える水脈となっていたことを示す。時代ごとの大衆文化の豊かさ、切なさ、危うさに触れながら、”日本資本主義の精神”の展開史を書き出す気鋭の力作!”

とある。

 

感想。
う~~ん。良くまとめてあるなぁ、と思いつつ、なんだか、大衆文化に関する博士論文でもよんでいるようだった。歴史の出来事が、「修養」「教養」といった点で語られているのは、面白い。良くまとめてあるな、と思うのだが、面白みに欠けるっていう感じだろうか。明治時代から、大正、昭和、最後は最近はやりの「オンラインサロン」の話まで。たしかに、こういう視点でみるとなるほど、と思う。ただ、著者は人々はそういう世の中の流れにながされているだけではないのか?という第三者視線で語っている感じが、私には寂しい感じがした。

1986年生まれというから、世代の違いかなぁ、、、なんて思ったり。昭和の時代、会社が社員に研修を提供していたのは、社員が育てば会社の利益になるからだ、という考察には、この人は、いわゆる会社という組織で働いたことがないんだなあ、、、という感じがした。まして、部下を持ったこともないだろう、と。あとがきで、一度、某生命保険会社に入社したが早々に退社した、という話が出てきた。大学院で学びたいという思いと、健康の理由だったとのことで、学術の道にはいったようだ。学術の道は、一般人の「自己啓発」とは、視点が大きくことなるだろう。その立場から、一般人の自己啓発を否定的に見ているような感じが、読んでいてちょっと引っ掛かった。たしかに、人に流されている学びというのは、一度立ち止まって考え直してみる必要はあるかもしれない、、、けど。人に流されている、と見るところ自体が、ちょっと、シラケる感じがなきにしもあらず。。。

でも、修養というものが、どのように生まれ、どのようにかわってきたか、という調査・考察は、面白い。とても良く研究していると思う。研究論文を、NHK出版らしく、読みやすくした感じ?


目次

序章 「自分磨き」の思考
第一章 語られた修養 伝統宗教と〈宗教っぽい〉もの
第二章 Self-Helpの波紋 知っ新出生と成功の夢
第三章 働く青年と処世術 新渡戸稲造と『実業之日本』
第四章 「経営の神様」と宗教  松下幸之助の実践
第五章 修養する企業集団 ダスキンの向上心
終章 修養の系譜と近代日本 集団のなかで自分を磨く

 

「修養」とは、自分磨き。個人が主体的に自らを磨き高めようとする志向。今の言葉でいう「自己啓発」だ。 
著者の言葉では、「自己啓発とは、自分自身の認識や変革、資質向上への志向」のこと、と。そのために手軽に取り組めるのが、読書。自分の人格向上のために書物に向かう文化は、「教養主義」というのだそうだ。そして、「教養」というのは、もともと「修養」と同じカテゴリーにあったが、大正期に「教養は学歴エリートが身につけるもの」として、「修養は日常的な実践として大衆化」したのだという。

修養というのは、「日常的な実践」のための自分磨き、ということのようだ。だから、松下幸之助の教えなどは、「修養」ということになる。

また、「研修」という言葉は、もともと、「教育基本法」にある「学校の教員は絶えず研究と修養に励むように」という文章から、研究と修養が短縮して「研修」となったのだそうだ。つまり研究して、修養するのが研修、なんだそうだ。ふ~~~ん。

 

序章で、著者の「修養」に対する斜め目線が、すでに顔を出している。

”明治初期に急速に発達する資本主義経済を日本を裏で支えたのは、通俗道徳(修養)であり、それは、貧困層に対して「ある人が貧乏なのは、その人が勤勉でないからだ」ということになり、自分たちの苦しい状況を生み出している本当の原因や存在を隠すことになった”、と。

はやりのことを学ぶことで、本来目を向けるべきことに向けない、、、とすれば、確かに通俗、といえるかもしれないけれど、、、、。二宮尊徳石田梅岩の教えも、通俗道徳だと。勤勉・倹約、忍耐や正直、孝行や早起き、、、といった通俗道徳を大事にして生きてきたのが日本人だ、と。

まぁ、そうかもしれないけどね。

 

「通俗道徳が貧困の本当の理由を隠した」というのは、本当にそうなんだろうか??、と私はちょっと懐疑的に思った。

 

通俗道徳なのかは別にして、修養が一般の人に人気となったきっかけがいくつか紹介されている。

福沢諭吉の『学問のすすめ
中村正直訳の『西国立志論』
西田天香一燈園
加藤咄堂の『修養論』
などなど・・・・

 

また、教養の極致として宗教に興味を持つ流れもあった、と。内村鑑三新渡戸稲造は、キリスト教徒として有名だ。エリート学生の必読書『三太郎の日記』等を刊行した岩波書店の創業者・岩波茂雄は、内村と師弟関係だったそうだ。

 

西国立志論』は、サミュエル・スマイルズの『Self-Help』の訳本で、ニュートン、ワトソンといった様々な成功者の成功物語が紹介されていた。昔から、誰かの成功物語集というのは、自己啓発の基本だったのだろう。そして、『Self-Help』の中では、国家の発展を精神面から説いていた。本書の中では、「国家の進歩は個人の勤勉、エネルギーは正直さの総和であり、国家の衰退は個人の怠惰、わがまま、悪徳による」と述べていたそうだ。

日本は、精神論に走りがちだというけれど、もともとはここからきていたのだ、、、と思うと、結構、納得してしまう。

 

そして、戦争、戦後。松下幸之助松下電器パナソニック)創設者)、鈴木精一(ダスキン創設者)の話が展開する。会社として社員に研修、修養を進めるようになるという流れ。

 

松下幸之助は、もともと身体が弱く、幼いころには丁稚奉公にだされていた。だから、エリートではない人間が成功した代表例として、日本人に愛されている。 松下幸之助が、社員を大事にする、会社で一団となって精進する、という日本の会社の基本を作ったと言ってもいいだろう。かつ、彼はなにか一つの宗教にこだわることはなかったけれど、様々な宗教関連施設にも寄付をしている。浅草寺雷門の大提灯復興も彼の寄付によるもの。1987年94歳で死去したときの遺産額は2500億円。これは日本人の遺産最高学として、今も破られていないそうだ。経営の神様、残したものは思想だけではなかった。

そして、会社として社員を教育するという流れになっていく。

 

松下電器の「全員一致」の体制は、会社への帰属意識を高め、従業員の精神的団結を図るにも有効だった。おそらく、いわゆる終身雇用制が一般的になった日本の会社の多くは、同じような流れだったと思う。社員は家族。だから、一緒に成長する。個人で働きながら、集団の中で自分を高めていく意識が、当たり前のようになった。

 

ダスキン創業者の鈴木精一は、西田天香(本名市太郎)の二宮尊徳の『報徳記』にならった教えに大きく影響をうけた。ダスキンは、令和の今でも「この会社で仕事ができて幸せだ」という人が多いそうだ。

 

本書の中にでてきたのだが、終身雇用が当たり前の時代、たしかに入社時に「身元引受書」と言われるものがあった気がする。それは、会社という集団への忠誠心を重視するためにあったのだという。

 

著者は、修養がイデオロギーに利用されている向きもあったのではないか、という事をいっている。明治の貧しい人たち、戦前期の国民教化、、確かに、わからなくもない。

そして、最近では、「オンラインサロン」での自己啓発。中には、詐欺まがいのものもあったりするとのこと。 

 

修養ということに励んでいても、実は主体的に取り組んでいるのではなく流されている面もあるのではないか?というのが著者の主張の一つ。主体的のつもりで、そうではないのではないか?と。

 

最後の方は、修養を否定的にみた文章が多くなってきて、読んでいてちょっと疲れてきてしまった。

 

会社の研修に参加するのは、流されていることなのか???

私は、そんなことはないと思う。というか、世の中本当に主体的に行動するって、そんなに簡単なことではない。主体的に行動するに至る前に、必然に迫られたり、集団としての流れに流されたりするのが普通なのではないだろうか?と思う。そこから新しい自分が見つかることがある。

 

就職するということだって、その時点では自分で選んだかもしれないけれど、入社してみたら思ったのとは違ったってことは、ままあるだろう。でも、思いがけずに新しい業務に出会ったり、思いがけずに新しい環境に置かれることで、自分の知らない自分が目覚めていくことがある、それは、サラリーマンの楽しみの一つともいえる。

そして、脱サラしたからこそ思うのは、会社という集団で仕事をするというのは、自分が思っていた以上に様々な機会が与えられていたということ。福利厚生として、通信教育の半額補助が出たり、研修の一環として自腹では払えないような講習をうけさせてもらったり。はたまた、資格試験も業務の一環として受けられたり。

 

会社に勤めたことがないと、こういったチャンスはないんだな、と、会社をやめて初めて気が付いた。

 

私は、通俗道徳と言われようと、教養主義と言われようと、「自らを磨き高めようとする」志向は持っていたいと思う。

だって、それが楽しいんだから。

 

自分で主体的と思っていたとしても、多くは何かの影響をうけてその思考に至っている。だから、色々なことに触れてみることは、たとえそれが通俗道徳といわれようと、会社という宗教だといわれようと、私は多く経験したほうがいいと思う。経験したうえで、これは自分には向かないと判断すれば、切り替えればいい。経験せずに、食わず嫌いはもったいない。

 

そう、キャリアポルノだって、読んでみて、その上で自分の人生に取り入れるのかを考えればいい。

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経験するって、大事。

どんな本も読んでみるっていうのも大事。

でも、つまらない本なら途中でやめる。

そういう本は、Megurecaには登場しない。

 

 

 

 

『NHKさかのぼり日本史 ⑥江戸 天下泰平の礎』 by  磯田道史

NHKさかのぼり日本史 ⑥江戸 天下泰平の礎
磯田道史
NHK出版
2012年1月30日 第1刷発行

 

⑤に続いて、⑥江戸。パスクトクガワーナはどうやって作られたのか。天下泰平というけれど、実は、いうほど泰平でもなかったんだよ、って話。農民は、天候不良で収穫が無くても年貢米をおさめろといじめられ、年貢を納めなければ、殺されちゃったり、、、。
とはいえ、島原の乱で、農民を殺しすぎちゃったら田畑があれて年貢を納めるひとがいなくなって、困ることになる、、、とういことに気が付いた幕府。また、飢饉が続くといずれだれもが大変な思いをすることになるので、備蓄することを覚えた時代。


先日の、佐藤優さんの『君たちの生存戦略』では、1755年 リスボン地震が、近代の災害対策の始まり、といわれるけれど、それより前に日本は1707年の宝永地震津波という大災害を経験している。

リスボン地震マグニチュード8.5~9.0相当。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡。
宝永地震マグニチュード8.6~9.3相当。津波の死者もあわせて、2万人とも。

 

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災害だけではなく、人は、失敗から学ぶのだ、、、、ということがわかる一冊。

 

表紙裏には、
”歴史には時代の流れを決定づけたターニングポイントがあり、それが起こった原因を探っていくことで「日本が来た道」が見えてくる。
260年以上にわたる長期安定社会を築いた「徳川の平和」の根底にあったものとは。。
1806年→ 1783年 → 1707年 → 1637年の危機を社会構造改革の場とした”転換”の発想をみる。”と。

 

ターニングポイントは、
1637年 島原の乱 (一揆に加わった農民は皆殺し)
1707年 宝永の地震津波 
1783年 浅間山噴火・天明の飢饉 (火山灰の影響で数年続く不作、大量死者)
1806年 露寇事件 (ロシアが松前藩を一方的に攻撃、鎖国の姿勢を表明

 

目次
第1章 「鎖国」が守った繁栄
第2章 飢饉が生んだ大改革
第3章 宝永地震・成熟社会への転換
第4章 島原の乱鎖国」の終焉

 

時代の流れを覚書。
1853年のペリー来航より前に、多くの外国船が日本に現れるようになっていたので、日本は海外に対しての対応をハッキリさせる必要性に迫られていた。その大きなきっかけが、ロシア船の来日。

1792年 ラクスマン 根室に来航して通商を求める
1804年 レザノフ 長崎に来航して通商を求める
1806年 露寇事件 
1808年 間宮林蔵樺太探査
1825年 異国船打ち払い令 (「鎖国」を祖法とする考え方の成立)

 

ラクスマンやレザノフは、日本と通商をしたかったのだけれど、幕府の返事は煮え切らず、待たせた挙句に、追い返された。それを不満におもった一部のロシア人が、松前藩を焼き討ちにしたのが、露寇事件。11代将軍、徳川家斉の時代。江戸は、浮世絵、落語、握りずしの屋台など民間社会が花開いていたけれど、ロシアとの貿易なんて考えてもいなかった。蝦夷地のこともそんなに考えていなかった。
ロシアに、散々な目にあっても、江戸幕府は護衛の人手を送っておけば何とかなるだろう、、位の態度だったのに対し、松前奉行は、実態を上申
ロシアなど恐れるのに足りぬというのは、潔く聞こえるが、民命に関わる浅見である!”と。
そして、武威の行使よりも、民命を重視する政治へと変化していく。
ようするに、刀でたたかう日本の武威は、銃や爆弾をつかうロシアの前に何の役にもたたなかった、、ってことなんだけど。

 

江戸時代は、「鎖国」していたと言われるけれど、長崎では中国・オランダと通商していたので、まったく外国との交易がなかったわけではない。3代将軍家光が、渡航している日本人の帰国禁止、ポルトガル船の来航禁止を始めたけれど、長崎の出島は中国・オランダと繋がっていた。でも、ロシアに通商を求められてもどうしていいかわからなかった日本は、「鎖国」なんです、という態度にでることにした。武力衝突を回避する目的があって、「鎖国」という態度を表明するようになる。

 

本書は、露寇事件をはじめ、「民命」を大事にするという政治に変化していったターニングポイントが時代をさかのぼって説明されている。

 

露寇事件より前が、1783年浅間山の噴火に始まる天明の大飢饉。それより前、8代将軍吉宗は、享保の改革で知られるが、それは「緊縮財政」による質素倹約だった。幕府の懐を増やすことの方が、民命より大事だった時代。つまり、「福祉国家」という思想はゼロだったのだ。吉宗のあと幕府財政の改革は、老中田沼意次に引き継がれる。賄賂政治で有名な田沼だけれど、一応、商品経済、貨幣経済の進展を見据えて、年貢収入だけに頼らない財政基盤を作ろうとしていたのだった。今でいう、重商主義な積極政策だった。でも、商業に目が向きすぎると農村への救済が不十分となり、農民は田畑をすてて商業都市にでてきてしまった。放置された農村は、凶作でさらに荒廃し、飢饉へ・・・。

吉宗や田村がおこなった改革は、幕府の改革でしかなく、民への視線はほとんどなかったのだ。幕府が集めた資金は、幕府が使った・・・。

その後、老中松平定信の時代になると、反田沼派の支援もあり、軍事政権から福祉政治へと変化していく。

 

地方には、公共事業によって貧民救済をしたり、子育て支援をする代官も活躍するようになっていく。福祉国家のめばえ。

 

それより前に、1707年宝永地震では、それまで推し進めてきた新田開発の流れが、ただ量を増やすという政策ではなく、生産性をあげて質を上げるという流れへと変化をもたらした。そして、それは人々の暮らしを豊かにしていくことにつながる。地震で多くの田畑が失われ、人命が失われたことで低成長時代とはなったけれど、安定した成熟社会へと変わっていったのだ。

 

さらにさかのぼって、江戸時代の高度経済成長をささえた源流についてが、第四章。島原の乱に代表される。武力による恐怖支配では、領主側にとっても働き手を失うこととなり、生命尊重の社会へと変化していった話。

 

なんといっても有名なのは、島原の乱。これは、キリスト教信者がおおかったことから宗教的な反乱と思われがちだけれど、住民3万7千人が蜂起したと言われる一揆。背景には、島原、天草で数年に及んだ飢饉があった。飢饉にも関わらず、重い年貢を課した領主に対して農民の不満が爆発した。また、秀吉時代からのキリスト教弾圧に屈した人々も、この時には「立ち返りキリシタンとなったとも言われている。だからキリシタン一揆とも言われる。

結局、4か月に及んだ戦闘の末、籠城していた一揆勢は、女子供に至るまで、殺戮の対象となり、島原・天草地方の領民は激減。農村は荒廃し、年貢はゼロ、支配者である武士が困窮する事態へとつながる。
そこで、「暴力で領民を従わせることは、大きな代償をはらうことになる」という教訓をえた統治者は、百姓を大切にする「徳」を備えなければならない、、、と、武士の体質が改善された。

犠牲があってからの、「徳」への目覚め。綱吉の「生類憐みの令」も、元々犬を大切にせよ、ということではなく、人の命も、犬の命も、大切にしなさい、ということだった。

 

島原の乱以外でも、領主による領民の惨殺という例は地方ではよくあったのだという。いわゆる、悪徳代官か。泰平といっていられるのは、一部の武士階級に限られていたのかもしれない。

大きな犠牲のもとにあった、「福祉政治」への流れ。それが、パクス・トクガワの流れの源流にあったのだ。

 

そして、読み終わって、何か読んだことあるなぁ、、、、と思った。。

磯田道史さん?あれ?みたことあるぞ?

と思ったら、読んでいた。まさに本書を文庫化したモノって・・。

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まぁ、ほぼ読み終わって気が付いたのだから、私の記憶力なんてあてにならないもんだ。

 

ま、二度目としても楽しく読めた。

やっぱり、歴史は出来事を関連性をみながら読むのが楽しい。

 

歴史は、いくらやっても終わりがない。

 

『NHKさかのぼり日本史 ⑤幕末 危機が生んだ挙国一致』 by  三谷博

NHKさかのぼり日本史 ⑤幕末 危機が生んだ挙国一致
三谷博
NHK出版
2011年12月30日 第1刷発行

 

昨日に引き続き、今回は、⑤幕末 危機が生んだ挙国一致

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著者の三谷さんは、1950年広島県生まれ東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。専門は日本東アジア近代史。文学博士、とのこと。 

④では、明治維新から大日本帝国憲法が出来るまでを、大久保利通伊藤博文の活動を通じてみてきた。⑤は、さらにさかのぼって、ペリー来航から王政復古の大号令まで。王政復古から第二次長州征討、桜田門外の変、ペリー来航と徳川幕府が権力を失っていく過程。

 

表紙裏には、
”歴史には時代の流れを決定づけたターニングポイントがあり、それが起こった原因を探っていくことで「日本が来た道」が見えてくる。
ペリー来航を始めとする西洋列強の圧力・それはかつてない危機の意識を人々にもたらした。1867 → 1866年 → 1860年 → 1853年の日本史上最大の”革命期”を活写する”、と。

ターニングポイントは、

1853年 ペリー来航 (高圧的なアメリカ)
1860年 桜田門外の変 (井伊直弼、登城直前で暗殺される)
1866年 第二次長州征討 (幕府軍に駆り出された武士は戦闘意欲なく惨敗)
1867年 王政復古の大号令 (スローガンは、「神武創業の始にもどす」)

 

著者は、「はじめに」で
”なぜそうなっていったのかは、「尊攘派」の「討幕」の運動だけを見ていては理解できない。彼らが共通に西洋に対する危機意識を持ち、連邦国家の日本が一つの国としてまとまる必要、つまり「挙国一致」を目指していたことが分かる。彼らは日本を救うため「公論」と結集の核を求めた。「王政復古」はその模索の結果だったが、彼らの課題がそれで完成したわけではない。”と述べている。

まさに島崎藤村『夜明け前』で、半蔵が悶々としている時代。それまでの藩としての各国が、日本という一つの国にならねば、と思い始めた時代。でも、幕府はもうあてにならないし、、、そんななかで、国学も流行っては廃れていった。 やはり、時代背景が理解できると、『夜明け前』ももっと深く読めるかもな、、、と思った。

 

うん、なかなか読みやすい。幕府がだめだからって、簡単に天皇中心、ってわけにもいかなかった時代。でも、国が一つになって戦うべき相手がいると、共通目的をもつことになり、それなりの方向へ収束していく。完全ではないにせよ。無血開城もすごいけれど、要するに国内でこれ以上争っている場合じゃないっていう危機感があったのだろう。
江戸幕府の衰退。勉強になる一冊。

 

目次
第1章 王政復古・維新の選択
第2章 長州征討・新秩序の模索
第3章 桜田門外の変・幕府専制の限界
第4章 維新の原点・ペリー来航

 

歴史の流れを覚書。


第1章 王政復古・維新の選択
1867年 王政復古の大号令 の前に、その年にどどど、、、っといろんなことが起きている。

薩土盟約
薩長同盟薩長出兵盟約)
倒幕の密勅
大政奉還
王政復古の大号令

そして、
1868年 鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争起こる)
五箇条の誓文
奥羽越列藩同盟成立

1869年 版籍奉還
1871年 廃藩置県

と。

王政復古とは、天皇を中心とした政治体制を作り直すこと。これを中心的になって進めたのが、岩倉具視。岩倉は、下級の公家出身だったけれど、孝明天皇の近習に抜擢されたことで、朝廷と幕府との和解に奔走し、天皇の妹・和宮と将軍徳川家茂との結婚を成し遂げる。しかし、これが、幕府に敵意を抱く尊王攘夷派と朝廷上層の公家の両方からひんしゅくをかっちゃう、、、、。
で、岩倉と共同歩調をとったのが、大久保利通。統治能力を失っていた幕府に代わって、新秩序を天皇を中心として作ろうとした。

当時の政治体制としては、主に3つの考え方があった。
① 幕府の専制を続ける。 (会津藩桑名藩、など)
② 徳川宗家中心の公議体制を作る。 (徳川慶喜土佐藩尾張藩、越前藩などの雄藩)
③ 徳川宗家抜きの公議体制を作る。 (薩摩藩長州藩岩倉具視

公議の試みはあったけれど、決裂。薩摩藩長州藩は、③の倒幕へと進んでいった。

結局は、幕府の統治能力の限界、とみんなが思った。では、なぜ、統治能力の限界となってしまったのか。それが、第2章 長州征討・新秩序の模索。

 

1862年 生麦事件 (薩摩藩士が英国人を殺傷)
1863年 長州藩、下関で外国船を砲撃。

    薩英戦争 (生麦事件が発端。両者痛み分け)
    8.18の政変 (長州藩が京都から追放される)
    参与会議 (参与島津久光ら、話がまとまらず2か月で解散)
1864年 禁門の変 (長州勢は朝敵となる)
    四国連合艦隊、下関を砲撃 
    第一次長州征討
1866年 薩長盟約
    第二次長州征討 (幕府の惨敗)

結局、第二次長州征討のころには、だれも幕府と一緒に長州を倒そうなんて気持ちを持てなくなっていた。しかも、そんなさなか、徳川家茂大坂城で病死するという不測の事態。征討軍は解散、幕府の惨敗となった。。。。

当時、時事問題を織り込んだ川柳や狂歌がはやって、政治を風刺する作品がたくさん作られた。長州征討を風刺した「伊呂波たとえ」というカルタが流行ったそうだ。

い:一寸先は闇 此節の形成
 まさか幕府が負けるとは、一寸先は闇

ろ:労して功なし 征討の諸軍
 動員された諸藩は苦労したのに得るものがなかった

こ:後悔先に立たず 将軍御進発
 将軍も江戸を進発しなければよかった

せ:せいては事 今度は衆評
 幕府は焦って失敗。今後はよくよく公議せよ

なるほどね。笑える。

 

第3章は、幕府衰退の象徴的事件、桜田門外の変桜田門外の変は、大老井伊直弼1860年桜田門外で暗殺された事件。最高権力者暗殺の成功は幕府の絶対性を崩壊させ単独政権の維持を不可能にしてしまった。海外からの開国圧力、将軍継嗣問題、なかなかみんなの意見がまとまらない中、直弼は、条約締結、将軍継嗣を、条約調印、一橋慶喜で進める。ところが、それを面白くないとみる勢力があった。対立は、いよいよ複雑化し、直弼を恨むものは多かった。

① 幕府と朝廷の対立
② 幕府と一橋派大名との対立
③ 幕府と志士の対立

そんななか、安政五年の政変。吉田松陰が死罪となった、安政の大獄をおこなった直弼。直弼は、方々から恨みをかっていた、、という状態だったのだろう。季節外れの大雪の日、江戸城桜田門外から登城しようとした直弼は、水戸藩の浪士らに暗殺される。そして、江戸の治安悪化。幕府の権威は失墜。。。。政治の舞台は、江戸から京都へと移っていく。

と、暗殺して死んでしまった井伊直弼だけれど、強引に推し進めた条約調印のきっかけになったのは、1953年ペリー来航だった。というのが、第4章。

 

ペリー来航の以前から、日本には度々海外からの船が現れるようになっていた。だから、ある日突然だったわけでもないのだ。でも、ペリーは圧力的にやってきたし、江戸近くにやってきたということで、インパクト大だったのだ。

 

1844年 オランダ国王の開国進言。 (出島だけでなくて広く開国してよ)
1846年 英・仏船、琉球に来航
    米使ビッドル 浦賀来航
1850年 幕府、御国恩海防令を公布 
1852年 オランダ商館長、翌年の米船来航を予告
1853年 ぺリー来航 
    品川の台場築造に着手
1854年 日米和親条約 (不平等な条約)
1856年 阿部正弘、通商肯定論に転換

この時代、老中阿部正弘の活躍については、多くの本で語られている。阿部は幕府の外の意見も取り入れ、漸進的に開国へと国を導いていった、といっていいのだろう。ある日突然ガラッと変える革命のようなやり方ではなく、徐々に徐々に、、、、。国家の一大事であるから、たとえ禁忌にふれることでも率直な意見をのべてほしい、と広く意見をつのった。
今の時代の、「組織運営」でもお手本になりそうなやり方だ。たとえ、自分の意思が決まっていたとしても、広く意見を聞く。敵を作りにくくする極意?!。
とはいえ、結局は幕府が倒れることで、明治日本の建設が可能になったのだ。

 

ぺリー来航から、幕府が倒れるまで。幕府が倒れた要因は、内部要因、外部要因、どっちもあったということだろう。
パスクトクガワーナも、こうして終わりを迎えることに。

 

幕末がよくわかる一冊。

歴史の勉強におすすめ。

 

⑥は、最後には倒れてしまった江戸だけれど、いかにして「天下泰平」を260年以上にわたって維持したのか。実は、いうほど天下泰平じゃなかったって話。 

 

続きは、また明日。

 

 

『NHKさかのぼり日本史 ④明治 「官僚国家」への道』 by  佐々木克

NHKさかのぼり日本史 ④明治 「官僚国家」への道
佐々木克
NHK出版
2011年10月30日 第一刷発行

 

図書館でなにかないかなぁ、ってウロウロしていて目に入った本。NHK出版はわかりやすいし、新書サイズで、時間つぶしにちょうどいいと思って、借りてみた。さかのぼり日本史は、出来事のその前の出来事の、その前の、、、、とさかのぼっていくので、「なぜなぜ分析」の様に読めて、理解しやすい。④、⑤、⑥とまとめて借りてみた。

今回は、④明治「官僚国家」への道。

 

著者の佐々木さんは、1940年秋田県生まれ。京都大学名誉教授・博士(文学)。日本近代史を専門とし、とくに大久保利通の研究でしられているそうだ。全体に、大久保視点で語られているところが、一貫していてわかりやすい、ともいえる。

表紙裏には、
”歴史には時代の流れを決定づけたターニングポイントがあり、それが起こった原因を探っていくことで「日本が来た道」が見えてくる。
急速な近代化を果たした明治期の日本。その国家運営の中核を担ったのが「官僚」だった。
1889年 → 1881年 → 1873年 → 1871年の指導者の「信念」に裏打ちされた政策を見る。”と。

ターニングポイントは、

1871年 岩倉使節団の米欧派遣 (不平等条約の改正には、国際法学ばなきゃ)
1873年 内務省設立 (大久保利通の殖産興業への傾注)
1881年 明治14年の政変 (大隈重信自由民権運動派の追放)
1889年 大日本帝国憲法発布 (官僚立場の確立)

 

歴史の勉強の一冊。

 

本書がさかのぼる歴史の出来事は、大日本帝国憲法がどうやって出来るに至ったか。
岩倉使節団として海外をみてきた大久保が、日本を強くするには殖産興業が不可欠と考え、財源確保のために各種財政政策にはしり、それに不満をもった人々が自由民権運動をたちあげ、弾圧され、、、官僚国家へ。

今の時代を生きる私にとっては、官僚がいる世界が当たり前で、大日本帝国憲法がその基盤を作ったと言われても、ふ~~~ん、って感じだ。でも、明治前半は政治家と官僚の区別が曖昧だった、と言われて、なるほど、と思った。大久保利通は参議でありつつ内務省伊藤博文は参議でありつつ工部省。官僚として働きつつ、議会をつくっていったのだ。そうか、江戸時代には国会なんてなかったのだよな、、と。

 

目次
第1章:帝国憲法・権力の源泉
第2章:14年の政変近代化の分岐点
第3章:巨大官僚組織・内務省
第4章:岩倉使節団・近代化の出発点 

 

時代の流れを覚書。

 

さかのぼりなので、第1章:帝国憲法・権力の源泉で、憲法ができる数年間から。
1882年:伊藤博文憲法調査のため渡欧
1885年:太政官制を廃し、内閣制度を創設。第一次伊藤博文内閣成立
1886年帝国大学令公布
1887年:伊藤博文、神奈川県金沢で憲法草案の検討を開始
1889年:大日本帝国憲法発布
1890年:第一回帝国会議開会

 

伊藤博文は、幕末にはイギリスへ、1870年にはアメリカへ、そして岩倉使節団としても海外に渡り、1982年には憲法調査のために、ヨーロッパへ行っている。そしてプロイセン時代のビスマルクが、憲法を持ちながらも政治運営としては議会がうまく回っていないことを目にしていた。だからこそ、”どんなに良い憲法を作っても、政治運営がうまくいかなければ意味がない”と気づいた。そして、議会に対処できる強い政府が必要、と考え、1885年に太政官制を廃し、内閣制度を創設した。もっとも、この時の内閣のトップは天皇だ。その時点で、憲法はまだない。
そして、その内閣で働く優秀な人材を育成するために「帝国大学」を総合大学とし、官僚の育成に力をいれた。

東京大学は、まさに、官僚育成のための教育機関として整備されたのだ。


第2章:14年の政変・近代化の分岐点では、自由民権運動の発生とその停滞、そして官僚国家になった流れ。
14年の政変といわれても、私には何の事かわからなかった。14年の政変とは、大隈重信が国会から追放されたこと。大久保利通らは、大隈や福沢諭吉と言った自由民権派の早急な国会設置論を拒否した。そして大隈は議会から追放され、薩長指導者による政治が進められることとなる。
議会開設を目指す自由民権派と政府の間に、「近代化への方法の対立」、という図式があったのだ。

自由民権運動家が目指したのは、下からの近代化。制度の整備。
太政官政府・官僚がめざしたのは、上からの近代化。経済立国が先。
という違いがあった。

自由民権運動という活動が生まれてきた背景は、経済立国のために大久保たちがすすめた「地租税獲得」のための「地租改正」による農民の不満があった。また、1876年には、家禄が廃止され、士族たちに支給されていたお金もなくなった。農民、士族に不満が溜まっていた。それが、政府批判となり、自由民権運動になっていった。士族の反乱の一つが、西南戦争だった。

 

薩長以外の人にしてみると、一部の人が好き勝手やっている、と見えたのだった。でも、14年の政変で、官僚主導の近代国家が決定した。下からの近代化は、ここで挫折する。


第3章:巨大官僚組織・内務省では、農民、士族の不満が爆発するに至った、大久保の政治手腕について。繰り返しになるが、殖産興業のため大久保らが財源確保の「地租改正」や「家禄廃止」政策をとったことで、農民・士族の不満がたかまった。なぜ、人々の不満を買ってでも、大久保は殖産興業に傾注したのか。
大久保自身は、薩摩藩下級武士の息子だ。2歳年上の西郷隆盛に大いに影響をうけた大久保。岩倉使節団として海外にわたった大久保は、とにかく国を強くするために、殖産興業に力をいれた。大久保は、ドイツの帝国官房府にならって内務省を創設し、優秀な人材をあつめた。そして、あらゆる機能を内務省につくり、人材を集めた。戸籍管理、通信・運輸行政、土木管理、治水、インフラ、、、何もかもがあつまる巨大な官僚組織が内務省だった。
そのときの有能人材のひとりが、前島密。近代的な郵便制度の確立者。いま、一円切手になっている。


第4章:岩倉使節団・近代化の出発点 
大久保を、そのような行動に導いたのが、なんといっても岩倉使節団として海外を見聞きしたこと。使節団の目的は、不平等だった通商条約を改定するために、国際法を学ぶことにあった。最初に行ったアメリカで、歓待されたのをいいことに、条約改定についても口走って、痛い目に合う。コテンパンに反論され、言い返すこともできなかった。外交には、表と裏がある・・・その実態を身をもって経験した大久保らは、まずは、国力を高める、そこに傾注していくのだった。

 

時代を導いた若者たち。といっても岩倉使節団で渡欧した時、団長の岩倉具視は46歳、大久保が41歳、伊藤博文は30歳。これからの日本を作るために渡欧しているのだから、何もかもを吸収したいとおもって、赴いたことだろう。中には、英語が出来るからということで選抜された山口尚芳、32歳もいた。

英語ができるからといって、海外にいけたのだ。いいなぁ。

 

当時の評価がどうであったのかはわからないけれど、やっぱりこの時代に国づくりのために奔走するのは、大変だけれどそれだけの価値のある、大きな大きな仕事だったのだ。大久保は、円形ハゲができていたらしい。


官僚って、いまでは官僚批判があったりするけれど、日本の国家基盤をつくった。この時代の官僚たちというのは、まさに、開拓者として活躍したのだ。
官僚主導ですすめた殖産興業政策。そして、取り残されるのではないかと不安になって立ち上がった「自由民権運動」。下からの活動を、専門知識をもった優秀な官僚たちが、しだいに凌駕していく。そして、大日本帝国憲法で、官僚の立場は保障されるものとなった。

内務省は、戦後GHQによって解体された。でも、優秀な官僚は残った。

日本の近代化をささえた、官僚たちの物語。 

 

その時代に生きていたら、私もこういう社会的なことに関心をもったのだろうか?

なんておもいながら、面白く読んだ。

 

歴史も、こうして物語風に読むと、わかりやすい。しかも、だれか一人の人生に載せてみると、わかりやすいのかな、なんて思った。

『夜明け前』は、そうしてできたまさに歴史小説なんだなって。小説だけど、深い歴史の勉強になる。背景を知るって、大事だなぁ。

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さっとよめて、なかなか楽しい一冊。

  



『君たちの生存戦略 人間関係の極意と時代を読む力』 by  佐藤優

君たちの生存戦略
人間関係の極意と時代を読む力
佐藤優
ジャパンタイムズ出版 
2022年12月20日 初版発行

 

本屋さんで目に入った。帯には佐藤さんの写真が眼光鋭く 「読んだ方がいい」、と言っているような。。。ということで、買ってみた。

 

帯の佐藤さんの写真の横には、
”冷たくて寄る辺ない社会に投げ出された君たちが、居心地のいい人生を送るために。
左手に〈人脈〉、右手に〈時代を読む力〉”とある。

 

表紙カバー裏には、
”・人のような冷たい 『妖怪シェアハウス』
・直接的な人間関係  その暴力性
・感化は自己犠牲・洗脳は暴力
・強制参加の「永遠の椅子取りゲーム」
・価値の体系・利益の体系・力の体系
第三の道  小芝風花の目的論
・世直しとテロリズム  ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ
・人類共通の課題を考える余裕のないわたしたち
・加速するメリーゴウランド
・街のスナックは交換様式 D の予兆”
と。
これだけ見ると、なんだかよくわからない、、、けど、佐藤さん視点の切り口で、今の社会の問題、自分はどうすればよいのか、が述べられている。

 

227ページ、1500円(税別)。わりと文字が少なく、、、見た目の厚さのわりには、さ~っと読める。まえがきで、佐藤さんの持病が悪化しつつあって、残された時間が少なくなっているなか、その時間を有効に使いたいと思って書いた、と述べられている。ご自身の経験で得てきた貴重なノウハウを若い世代に伝えるのが本書の目的、と。

 

目次
第一部 明日から職場で使える人間関係の極意
第一章 人脈づくり
第二章 スキルアップ 
第三章 管理職になったら

第二部 仕事力をアップさせる「時代を読む力」
第一章 時代を読むための洞察力
第二章 歴史の転換点
第三章 社会の危機と未来の破局
第四章 危機を乗り越えるための考え方

 

さ~~っと、読めるけど、読みごたえはある。
これで1500円なら、安い。20代、30代なら一冊手元に置いておいてもいいかも、、、なんてね。
第一部は、既に脱サラしている私には、これから参考にするというより、うんうん、そうだよね、と共感することがたくさん。第二部は、やっぱり生涯学び続けるって、楽しいよな、っておもえる。「時代を読む」には、歴史を学ぶのは必須だと、よくわかる。

 

心に響いたことを、覚え書き。

・うんと深く付き合うのは五人でいい
 親密な関係を築く相手は、多ければいいのではなく、本当に自分にとって大事な五人くらいで十分ということ。すくなそうだけれど、その五人もそれぞれその先の人脈を持っている。そこをたどれば広い人脈をつくることは出来る。人脈を作りたかったら、むやみに広げるのではなく、本当に信頼できる人を五人つくること

うん、そして、信頼できる友達というのは、頻繁に会う友達ということでもない。ということが歳をとるとよくわかる。

 

・一緒に食事をすることの重要性
 一緒に食事をすることは、親しい関係がより親密になる。お通夜でお斎をみんなで食べるのも、つながるため。会食することで、つながる、というメッセージになる。
だから、大事な人とはできるだけ一緒に食事をするといい。

 

・自腹を切ってはいけない。もう一つの公私混同。
 人脈を広げるうえで、ある程度お金は必要。公私混同というと、会社のお金を私的につかってはいけない、というのは当たり前だけれど、「仕事のために身銭を切る」こともしてはいけない、と。滅私奉公のように自分のお金を会社のために使っていると、 自分が使ったお金を取り戻してやろうという気持ちが起きることがある。そして、会社のお金がある程度自由に使えるような立場になった途端、交際費を使いまくる。。。極端な場合は、横領に走る・・・。

あ、、ちょっとわかる。横領という現場は見たことないけれど、そこまで交際費でおとすか?!?!というお金の使い方をするひと、、、、たしかに、いたなぁ。。。
「とりもどしてやろう」という気持ち、わからなくはない。いつか見返りを、、、と期待して使うお金は、やはりある意味、公私混同というか、間違ったお金の使い方かもしれない。お金は、使うなら、執着せずにどーんと使おう。

 

・人物を見極める基準 意思と能力のマトリックス
 横軸に意思、縦軸に能力をとったマトリックスで、人物を見る。「やる気があって、能力も高い」はいい。危険なのは、「やる気があって、能力が低い」・・・・・。

部下を持ったことのある人なら、だれもがうなずいてしまうだろう・・・・。
できることなら、こういう「やる気があって、能力が低い」タイプは距離をとったほうがいい、と。やる気があって前向きなので、やたらと名刺を配りまくり、自己アピールをするタイプ。本当に能力がある人は自己アピールをしなくても、周りがちゃんと評価する・・・。こういうタイプが、上司になった部下もつらいけどね。

 

・内在的論理がわかれば鬼上司も怖くない
 人には、それぞれ「内在的論理」がある。つまり、その人にとっての「理屈」だ。機嫌が悪いなら悪いなりの理屈が本人にはある。難しい人ほど、周りには見えにくい「理屈」を持っているもの。それが見えてくると、気難しくてちょっと面倒な人でも付き合いが可能になる。

 

うん、わかる。自分の基準では理解できない相手のことは、相手の内在的論理を考えると、相手に振り回されずに済む。だって、自分とは違う価値観で生きているんだから、自分と同じように考えるわけもなければ、行動するわけもない。そういう相手こそ、「内在的理論」がどうなっているのかを考えることで、過度なストレスになるのを防ごう。

 

・伝える力 ロジック・レトリック・アナロジー
自分の意思や考え方を伝えるのに有効な方法は、ロジックとレトリックがある。
 ロジック:論理
 レトリック:修辞学・弁論術
ロジックは、帰納法など、いくつかの事例を列挙して結論を説明する。もっとも一般的。レトリックは、同じことをいうにも、いかにうまい言い方をするか、、、。
相手に対して、「お前、嘘をつくなよ」といえば角が立つ。「お互い正直にやりましょう」といえば、角が立たない。
言い方って、大事。
そして、レトリックを使うときには、アナロジー(類比)が基礎となる。~のような、という比喩的な表現をつかうことで、伝わりやすくなる。

ワインの香りを「トロピカルフルーツのような」とか言うのも、アナロジー。「スミレの花のつぼみのような」というワイン用語があるのだが、それはそれで、スミレのつぼみなんて香りしないから、わからんわ!となるけれど・・・。

 

・ノート一冊主義
 佐藤さんは、日記も仕事も勉強も、すべて同じ一冊のノートを使っているということ。一冊のすべての記憶が収まっている。予定の変更も、コンピューターなら消えちゃうけど、ボールペンで書いたものなら、消した跡が残る。使っているのは、コクヨのCampasノート100枚綴りだそうだ。厚さ、11cm。だいたい、2か月で使い切るくらい、と。

ノートは、何を使うのか、結構、悩ましい・・・。私は、仕事用、読書用、アイディア用、と使い分けているのだけれど、厳密にそれぞれを分類するのは難しい・・・。たしかに、ノート一冊主義もいいかもなぁ。私は、Campasの5㎜方眼罫を好んで使っている。読書用には、100均のお絵描きノート。でもこれは、紙が分厚くて書くにはいいのだけれど、保存場所をとるので困る。Campasノート100枚つづり、一度使ってみようかな。

 

・思考の鋳型を持つ
「思考の鋳型」とは「哲学」。自分の中に、その鋳型があると、ものごとを迅速に判断できるようになる。それは、自分なりの人生、社会、人間に関しての視点と視座をもつこと。

つまりは、「自分の頭で考える」だ。自分の頭で考えるためには、それなりの基礎が必要。それを積み上げ続けるのが人生。。。

 

・物事を判断する三つの基準:価値の体系、利益の体系、力の体系
国際政治学者・高坂正尭さんの古典的名著『国際政治 恐怖と希望』のなかの概念だそうだ。

価値の体系とは、資本主義とか自由とか、イデオロギー的な基準や宗教、道徳の価値観。

利益の体系は、そのまま経済的利益の損得。

力の体系とは、権力の有無、地位や立場の関係。

利益はでるけれど、道徳的によろしくない、という仕事を続けていると疲弊する。社会に貢献できる価値を提供しているけれど、上司の権力によって自分の時間が搾取されている状態は、やはり疲弊する。
3つの基準が、自分のなかでバランスをくずしたり、自分の価値体系にあわないなら、そこから逃げるべし!と。

 

・歴史の転換点は、客観的事実として知っておく。
世界史として重要な歴史の転換点が挙げられている。
1347年 黒死病(ペスト)の流行
1419年 フス戦争 (教会の腐敗を訴えたフスは、焚刑)
1517年 ルターによる宗教改革プロテスタント運動へ)
1648年 ウェストファリア(ウェストファーレン)条約 
1755年 リスボン地震 (近代国家の災害対策の始まり)
1789年 フランス革命 (人権宣言へ)
1814年~1815年 ウィーン会議 (ヨーロッパの均衡と秩序へ)
1914年~1918年 第1次世界大戦
1939年~1945年 第2次世界大戦
1991年 ソビエト連邦の崩壊
1995年 地下鉄サリン事件
2001年9月11日 アメリ同時多発テロ
2011年3月11日 東日本大震災
2020年 新型コロナウイルスパンデミック
2022年2月24日 ロシアのウクライナ侵攻

 

・国家とはなにかを見極める
国家とは、ある一定の領域で「物理的暴力の行使の権利を独占し、他の組織や団体が暴力を行使することを制限する権力を持っている」。ロシアは、ウクライナ侵攻のために国民に兵士として戦え、と強制した。戦争とはその暴力性が顕著になったもの・・。

 

・街のスナックは交換様式Dの予兆。
最後に、国際平和について語られている。国と国との付き合い方から、人と人との付き合い方へ展開し、街のスナックの話に飛ぶ。交換様式Dというのは、柄谷行人さんが展開している社会の構造を分類するときの一つの考え方。
経済的な交換様式を4つに分類する。

交換様式A:互酬(贈与と返礼)
交換様式B:略奪と再分配(服従と保護)
交換様式C:商品交換(貨幣と商品)
交換様式D:A,B,Cを超える新たな交換様式 (交換様式Aの高次元での回復)

スナックは、利害関係のない人が互いにおしゃべりできる場。会社でも家庭でもないところで、心を許して話せるママがいる、マスターがいる、そいういう場所がこれからの時代、結構重要かもしれない、と。 

 

どの話も、中庸をとっているな、という感じがする。極端な方に寄りすぎるなということより、極端なことがあることを理解した上での中庸が大事。世の中には悪もある。善もある。それを分かったうえで、自分はどの立ち位置に行くのか。広い視野を持って考えるって、大事。

まずもって、自分が知っている世界というのが、どれほど小さい世界なのかってことを自覚するのが大事なんだろう。でも、それは経験を積み重ねていくことでわかること。本書を読んだからといって、いきなり世の中がわかるわけではない。でも、そういう世界もあるんだ、ということに触れておくことが大事。コロナワクチンじゃないけど、社会の悪も、人の悪も、そういう悪が世の中にはあるのだ、とちょっとだけ予防接種的に知っておく。そういう世界に免疫をもっておくって、生存戦略として大事かもな、って思う。

 

うん、面白い一冊だった。