翻訳本と原語との差異

いまさらながら、マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」の清水一浩[訳]を読んでいる。世界中のベストセラーになったというが、はっきり言って、難解で哲学素人の私には、よくわからない。

素人でも、わかるように書いた本らしい。

私が、哲学の素人だからなのか、歴史の素人だからなのか、たんに、読解力がないのか。。。

 

Warum es die welt nicht  gibt というのが原文らしい。ドイツ語である。

 

訳者の清水さんの「訳者あとがき」によると、原書・仏訳と英訳の間で異同が少なからずあるとのこと。例に挙げられた一文は、英文では原文のさかさまの意味に訳されているらしい。

日本語訳は、原書・仏訳に即して訳出したとのこと。

 

翻訳本ならではの、文字を追っても頭に想起されてこない、難解さがあることがある。

そこに書かれているのは、日本語なのに、である。

 

哲学という私にとって難解な分野の本であるという事、翻訳本であるという事、どちらのせいなのかわからないけれど、今の私には、すっとは、入ってこなかった。

 

海外の著者の本を日本語版で読むときによく思うだけれど、中身が難解なのか、翻訳が難解なのか、わからなくなることがある。ありがちなのは、著者の国においてポピュラーな何かに例えた表現が出てくるとき。人気番組や、そのキャラクターなどが比喩ででてくると、それを知らない人にとっては比喩が比喩にならず????なのである。


「なぜ世界は存在しないのか」の中にも、そういう一場面があった。

”プームルック”、、、何のことだか分らなかった。

これは、単純に著者がもつ常識(基礎的知識)と翻訳先の国の読み手とのギャップによるもので、訳者はそこを変換するわけではないので、ドイツの人気アニメキャラの名前を、日本のアニメキャラには翻訳しないのである。

 

翻訳者は、どこまで翻訳すべきか?

多分、意訳せずに、そのまま訳すべきなのだろう。

通訳者は?

 

米原万里さんが、阪神の通訳の人は英語⇒関西弁ができると書いていた。

かつ、関西弁じゃないと、あかんのよ、という場面がある。

オマリーのインタビュー

「ほんま、チームやファンのためにええ仕事させてもろてうれしい」(英日訳)

今の人は、オマリーをしらないかもしれない。

ドイツのキャラクターを知らないのと、同じレベルの事例が日本語でもでてしまったかもしれない。。。

 

私は今、通訳(英日)の勉強をしている。

マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を読んでいることと、通訳の勉強は全く関係がないのだが、言葉を変換するということと、言葉を言い換えるという事はちがうのだよな、、と、本を読みながら思ったりしたのだ。

 

翻訳によって、まったく違う作品になるから、源氏物語の現代語訳もいろいろな人が訳してみたくなるのね、、とか、思った。

 

言葉って、大事だし、すごいし、不思議だ。

通訳の勉強は、日本語の勉強でもある。

言葉は、奥が深い。。。