「悲しき熱帯」を読んだときに、なんとなく、哀しい、じゃないのかな?
と思ったので、そんな話を、本の校正のプロに聞いてみた。
彼は、私より20歳年上で、古希のお祝いをしたのは数年前。私が知っている人の中で一番の酒豪であり、物知りであり、でも決して多くを語りつくさない人であり、言葉のプロとして尊敬する人。そうだ、とにかくもっと本を読みなさい、と言ってくれたのは彼である。なんでもいいから読む。確かに、とにかく文字を読んでいると、言葉の美しさ、楽しさ、面白さにアンテナが立つようになっている気がしている。
悲しい:すっかり失われてしまって、元に戻らないかなしみ
哀しい:なんとなく、ぼんやりとしたかなしみ
であれば、「悲しき熱帯」は、やはり、「悲しき熱帯」なのだ。
読んだ後に、じわじわと、取り返しのつかないことを人がやってきたという、史実が悲しいのだ。
かといって、本の中でレヴィ・ストロースは、こうするべきだったとか、してはいけないことをした、とかは言っていない。
自分の目で見て、体感した、調査した事実を、その時の心情とともに書き連ねている。
あとから、じわじわと、この本が素晴らしい古典、と言われるゆえんが身に染みてくる感じがする。
主義主張が全面に出ているわけではないのに、心揺さぶられるのは、「悲しい」歴史が今、そこで生きている人たちともつながっているということを感じさせれらるからなのか。
「悲しい」ことは、生きていれば直面することはたくさんある。
でも、もう、元に戻らない悲しみは、やはり、戻らないのだ。
失ったものの分だけ、新しいものを入れる器ができたとおもって、受け入れるしかないのだ。
「哀しい」と思えるのは、人生の流れの中での彩りだと、振り返ると思えるかもしれない。
辞書には載ってなかった。「悲しみ」と「哀しみ」。
音で聞けばわからない。
文字にして初めてわかる、言葉のもつ姿形。
言葉って、文字って、日本語って、面白い。
そして、主義主張が全面に出ていない本のほうが、心に残る。そんな自分の心の反応も面白い。