「テクノロジーは貧困を救わない」 外山健太郎 (著) を、ふと思い出した。
読んだのは、多分、平成の終わりころ。5年くらい前か?
ただ、その言葉を思い出した。
読んだのは、私がまだテクノロジーの追及に燃えていた頃だった。
でも、なにか、つかめそうでつかめない未来を、現実を、見せつけられた気がしたので、すごく印象に残っている。
私は、昭和の終わり、20代の時に、バイオテクノロジーで世界を幸せにする!と思って、技術の道に進み、30代で農学博士になった。でも、世界を幸せにするには、まだまだ道は遠い。というか、テクノロジーだけでは、社会に貢献できないし、一人では何もできないという事を身をもって知ることとなる。
いかなる技術も、人のため、平和目的以外に使用してはならない。
私は、一人の技術者として固くそう信じている。
でも、技術が人を苦しめることもある。
直接的に。間接的に。
わかりやすいのは、福島第一原発の事故だろう。
だれも、制御不能になるとは思っていなかった。
誰が故意に制御不能にするものか。
毎日、人々の暮らしに欠かせない電力を供給してくれる技術だったのに、一瞬にして人の命を、暮らしを奪う凶器と化した。
そして10年たった今もなお、人々を苦しめる。
もっと、わかりやすいのは、原爆か。
アインシュタインは、ルーズベルトは、トールマンは、どう思っていたのだろうか。
原子力は、使い方、制御方法を間違えれば、直接的に人からすべてを失う凶器になる可能性があることは、もう誰も否定はしないだろう。
でも、今なお、多くの人の暮らしを支えているのも事実である。
意図的な第三者による盗み。
意図的な内部者による漏洩。
あるいは、いったん第三者となった者が自己承認欲求に駆られて第三者にやすやすと提供する。
苦しめているのは科学的な事実やテクノロジーそのものではなく、人々による様々な行動なのではないか?
人が人を不幸にするほど、不幸なことはない。
加害者になっても。被害者になっても。
国際特許のある現代なら、訴訟はできるかもしれないけど、裁判は新しい価値を生み出す場としてはふさわしくない。消耗しかない。
しかも、同じようなことは繰り返される。
技術の盗用における犯人捜しほど、何も生み出さないものはない。
盗まれるほどの技術なら、堂々と表舞台で売ればいい。
まぁ、そんなに簡単は話ではないのだが。
種苗問題も、誰を守って誰を苦しめることになるのか、諸刃の剣。
ワインの葡萄づくりだって、醸造技術だって、ノウハウは国境を越えて、どんどん流出した。はたしてそれは誰を幸せにしたのか?
サラリーマンも長くやってきたけれど、結局のところ、
結局、人を幸せにするのも、不幸にするのも人なのである。
震災の被害は、本当にいたたまれないし、理不尽極まりないけれど、人がもたらす理不尽さに比べれは、、、、。
人は自然にはかなわない。
そう思える。
でも、人がもたらす理不尽さ、人がもたらす不幸に、人は憤りをかんじるのではないだろうか。
自然に憤っても、太陽に怒っても、風に怒っても、、、穏やかな天気に戻れば、自然への恨み事は消えるだろう。でも、人災だったら?いつまでも、しこりが残る。
長く、モノづくりを仕事としてきたけれど、結局、モノ作りは、人づくりなのである。
本当に、そうなのだ。
学校を好きになるのも、先生次第。
会社を好きになるのも、上司次第。
職場環境とはすなわち上司環境といってよいと思う。
人なんです。
やっぱり、人なんです。
テクノロジーも大事だけど、それを正しく使える人が必要なんです。
正しく使えているかどうかは、自分で考える。
自分で判断する力を養うために、たくさん読んで、見て、聞いて、話して、語って、対話して、悩んで、考える。
もう一度、私は何をしたいのか考える。
そう、導入することが目的になってしまったテクノロジーは、そこに根付かない。
やっぱり、人。
人を大切にしよう。
人を大切にするって、どういうこと?
自分で考える。
自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。
そう、それが一番の、人生の楽しみ方なのだ。