鳥瞰力 と 俯瞰力

とある会合への事前課題提出のなかで、

「問題に気付く鳥瞰力を育むことに、『日本のこころ』は、どう寄与するのか?考えてみたい。」

と、コメントして提出したところ、

「俯瞰力ではく、鳥瞰力ですね?」と、念を押された。

 

鳥瞰 と 俯瞰 の違いは?

あまり深く考えずに使った言葉だった。

 

広辞苑で引くと

鳥瞰:鳥が見下ろすように、高いところから広範囲に見下ろすこと。転じて全体を大きく眺め渡すこと。

俯瞰:高いところから見下ろすこと。全体を上から見ること。鳥瞰。

 

なんだ、俯瞰も鳥瞰もいっしょじゃないか。

でも、私にとっては、なんとなくニュアンスがちがった。

 

私が「鳥瞰」という言葉を使ったのは、松岡正剛さんの著書『多読術』の中で、読書をするのには鳥瞰力と微視力が必要だとおっしゃっていたことが頭にあったので、鳥瞰力という言葉をつかった。

 

たまたま、私の頭に残っていた言葉が「鳥瞰力」だった、という事かもしれないけれど、やはり、ここでの鳥瞰力は、俯瞰力とは違う気がする。

 

個人的に二つの言葉の違いをと問われると

俯瞰力というのは、当然、全体を見て考えるということなのだが、既にそこに解決したい問題などがあって、その上で全体を捉えようとする時に、「では全体を見てみよう!」というような、なんとなく答えありきで全体を見るような感じがする。問題があって、その構図がすでに決まっていて、そのうえで、全体から見ておかしくないかを考える、、、というような。

一方で、鳥瞰力と言うと、つべこべ言わず、とにかく上から見てみる!とか、空から見てみろ!とか、そういうことのような気がして、何かを思考するときに、真っ白なキャンパスの中に事実を散りばめることができるような感じがした。

なので、「問題に気づく鳥瞰力」という使い方をした。

 

言語学者からは、怒られてしまうような解釈かもしれないけれど、一般市民としての私の解釈である。個人的な、極めて個人的な解釈だけれども、似たような言葉があったときに、どう使うかは、その人の経験に基づく思考の結果なので、ルールとかにとらわれなくても、いいことにしよう。

 

冒頭のとある会合は、「日本のこころの源流をさぐる」という事をテーマに、各人が好きなことを言う。答えを求めにいくのではく、思考することを楽しみ参加している。

 

今回のように、俯瞰力と鳥瞰力のちがいなんて、言われなければ考えなかった。

思考のきっかけの多くは、人との対話にある。

「俯瞰と鳥瞰の違いは何か」というテーマでも、いくらでも語れそうな気がする。

思考することは、楽しい。

人間は、社会的動物だから、思考なしには満足できない。

対話をもっと、楽しみたい。