考えない時間 朝の坐禅

初めてやった。

朝のWeb坐禅

主催の方に誘っていただき、Zoomで参加。

気持ちよかった。

 

やっぱり朝起きて30分後ぐらいだと、まだ今日は何をしようかな?とか、冷蔵庫にあれがあったなーとか、今日の午後の予定はどうだったかな?とか、いろんな雑念がある。

自宅で、Web坐禅をしたのは、初めてで、かつ、30分間続けて坐禅をしたのも初めて。

時々参加する、全生庵での坐禅は、20分、2本、だったかな?30分続けることはない。

全生庵全体のひっそりとした感じと平井住職の醸す空気が、それはそれで緊張感というか、時間の長さではない充実感がある。

自宅でも、30分も座り続けていると、最後の方は、あまりあれこれ考えず、呼吸の数だけ数えていた。

気が付くと、30分終了。

 

感想。

気持ちいい。

6:30は、まだ外の音も騒がしくない。

ラジオ体操より、気持ちいい。

いいぞ、これは。

 

坐禅をやっていて気持ちいいのはなんなのか?っていうことを雑念にとらわれながら坐禅中に考えていた。誰かから何かを教えられたり、本から何かを読み解こうとしたり、たぶん頭で色々考えているよりも、坐禅をしている時間は何も考えなくていいという時間が心地よいのだと思った。

 

無にはなれないけど、無になって良い時間。

誰かから何か言われると、それはなんか押し付けられているように聞こえたり、相手は決してそんなつもりでは言ってなくても、勝手に自分の方でそんなこと言われたってって思ったり。

偉そうに言ってるけど、あなただってどうなのよ、なんて否定的に思ったり。

人の話を聞くときには、頭の中でそれを自分で受け入れるかどうかをぐるぐると考えている。たとえそれが素晴らしい考えだと思ったとしても、それはそれで脳は疲労する。

でも坐禅というのは、本当に何も考えていない時間だから、もちろん無になるという境地まではいたったことはないけれども、でもそうしていていい時間があるということが、ありがたくて、幸せな時間なのだと思う。

 

坐禅をしている時間が好きだ。

何も考えないでいることを許される時間が好きだ。

 

私にとっては、これは長距離の飛行機に乗っている時と少し似ている。飛行機に乗ってしまった以上、自分の命は飛行機の操縦者に、あるいはコントロールしているコンピューターに委ねているということ。

飛行機が着陸するまで、自分の命は、自分では管理できないようなもの。

実はその時間が結構好きだったりする。

他力本願とでもいうのだろうか。

自立したい、自立したい、とすごく思っているけれども、

自立するっていうのは、他者の力を借りるということなのである。

 

人間は一人では何もできない。

一人で考えても何もできない。

まず行動せよとは言うけれども、その前にまず空っぽになって、真っ白なキャンバスに、毎朝、真っ白なキャンパスになれる時間が必要なのかもしれない。

 

ねている時間とはやっぱり違う。

起きてはいるけれども無になってる時間。

無になってる時間は、意識しないと取れないし、一緒に坐禅を組んでくれる仲間がいるというのは、それはありがたいことである。

朝のWeb坐禅、初めて行ったけど、いやー気持ちいいな。

 

明日は一人でやってみようかな。

一人だと、覚醒するのに、タイマーのピピピ、、、にするしかないのが残念。