インターネット持仏堂 Ⅰ「いきなりはじめる浄土真宗」 内田樹 釈徹宗
2005年3月23日
本願寺出版
内田さんと釈さんとの往復書簡おしゃべりの記録。
内田さんは、1950年生まれなので、55歳の時の本。すごい55歳。どれだけのインプットがあると、これほど点と点がつながりまくるのだろう。。。。これだけ、色々なことがつながって考えられると、人生たのしいだろうなぁ、と思う。
私は現在、52歳。今からでも遅くない!いっぱいインプットし続けてみよう。
宗教に関する本は、これまでにも何冊も読んでいるけれども、未だに私にはピンとこない。
この本から、私にとっての宗教とはなんなのか?のヒントがみつかるだろうか?と思いつつ、読んでみた。
釈先生のお話。
宗教の形態による分類。
1 制度化・体系化されているもの
⇒ 一般的に宗教と呼ばれるもの。
2 制度化・体系化されていないもの
⇒ ある「行為」や「状態」、さらには「感情」や「思考」など。
宗教が、個人が生きる上での考え方の原理原則、よりどころだとすると、私にとっての一つの宗教は「自然崇拝」かもしれない。
一人のサイエンティストとして、テクノロジーでも、サイエンスでも人は救えないことがある、って、知っているから。
自然にはかなわない、と、常に思っている。
そう思うと、日常の些細なことは、本当にどうでもいいほど一瞬の些細なことなのである。
ただ、そう思える思考の原理原則が、「自然崇拝」である必要もない気がする。身近な元聖職者、プロテスタントの友人、かれらも小さな事にはこだわりすぎず、時間軸も含めて大きく物事をとらえる人が多い。
心のよりどころがあるか、ということが問題なのかもしれない。
私は、「アーメン」と祈ることもあるし、「般若心経」を唱えることもあるし、坐禅を組むこともある。一神教の人からすると、とんでもないのかもしれないけれど、私なりの心のよりどころ。ほかの人にも強要したりしないのだから、自分の自由意志なのだから、よいことにしている。
内田さん流の解釈、覚書。
「自由であるというのは、一言でいえば、人生のさまざまな分岐点において決断を下すとき、誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う、ということ。」
まさに!その通り!と思う。
そして、そのような自由を知る人が己の宿命を知ることができる。宿命を知るからこそ、「縁」にたどり着く。
内田さん曰く、「「縁」とは、「自由」の反対概念ではなく「対概念」」。
内田さんの表現で言えば、私はまだまだ自由な人間ではない。
でも自由になりたいから、一人を好み、組織から抜けることを選択した。
そして、ご縁があれば、それに従ってみている。
そんなつもりじゃなかったようなことが、意外と楽しかったり、自分に合っていることに気が付いたり、組織から抜けたからこそできた自由な時間で、「ご縁」に身を任せているかもしれない。
身を任せるという選択の判断も、一つの自由。
流れに流されるのではなく、流れに乗ってみる。意思をもって。
結構、新しい自由が、新しい世界が、見えてくることがある。
それも、「ご縁」かな。
この本を読んだところで、やはり、宗教はよくわからない。
浄土真宗が、制度化・体系化された宗教の一つだとして、私自身が、その中身がどういうものなのかまでは理解しようとしていないからかもしれない。
抽象的な、漠然としたものとしてしか、理解しようとしていないかもしれない。
具体がないと、ずっと抽象、概念のまま。
でも、宗教に具体はないのかな?
本書の中で、色々な言葉としての「具体」も出てきた。
ジャック・ラカン、エマニュエル・レヴィナス、レヴィストロース、ヒューム。この人たちがでてくるのは、内田さんからの書簡。
レヴィナスを通じたユダヤ教、「アナクロニズム(時間の順逆の転倒)」、「謝る大人」につながるマタイ伝、プリコラージュ、野生の思考、シンクロニティ。「かたじけなさ」
単語として取り出すと、何の本だか?!という気がするけれど、内田さんの頭の中ではこれらの具体が宗教という抽象の中でつながっている。
釈先生の書簡から、「啐啄同時」。久しぶりに聞いたな。
啐啄同時:
鳥の雛が卵から産まれ出ようとて、殻の中から卵の殻をつついて音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをすること。 これが「啐」と「啄」の関係。 互いが響同=協同し合った時、新しい何かが誕生する。
組織を離れた私をご縁がつついてくれているかもしれない。
今こそ、殻をやぶろう。
マインドマップを書き直して、もう一度整理してみよう。。。と思う。