「日本辺境論」 内田樹
日本人とはどういう人なのか?
日本人は、世界に貢献できるのだろうか?
という疑問に、答えはあるのかと思って読んでみたけれど、
答えがあるわけではなかった。
でも、そうか!
だから日本人はそういう行動に走るんだ!と、共感できることがポツポツ。
日本が世界に貢献できることを探したいと思っているのだが、道のりは遠いという事なのか。。。
本書での内田さんのメッセージは、
「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できる」ということ。常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民、それが日本人。
以下、4つのパートからなる本書。
Ⅰ 日本人は辺境人である
Ⅱ 辺境人の「学び」は効率がいい
Ⅲ 「機」の思想
Ⅳ 辺境人は日本語と共に
日本人は、辺境人である。だから、中心あるいは外部に標準を求める。自分の行動が、外部の標準から外れていないか、きょろきょろしている。
「私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。」
なるほど、と思った。
一方で、だから、「とことん辺境でいこうではないか」という内田さんの提案には、少し抵抗を感じる。
私は、とことん誰かに「保証人」を求めるのは、大人になることを放棄しているような気がする。できるかできないかわからないけれど、辺境人なりのリーダーシップがあってもいいのではないだろうか?
とことん辺境人で行く、それでは、自己判断できないのだから、日本がグローバルに主導権をとれるはずがない。日本人が、自ら主導力を発揮し、グローバルに活躍することはあるだろう。でも、それは、ある、特定の個人としての日本人。日本国が、主導権を発揮してグローバルに貢献したことが、これまでにあるだろうか???
少子高齢化社会を、いち早く迎えるのが日本なのだから、日本が世界のお手本となる行動を示していけばいい。ビジネスでも主導権をとれるはずだ。という主張はよく聞くのだが、とことん辺境人でいいとしてしまえば、そうなる日は、来ないような気がする。
べつに、取らなくて、いいのだろうか???
アメリカの属国として、この先も、きょろきょろし続けるのか?
誰も、日本国に主導力を発揮してほしいなんて思っていないし、国民一人一人が幸せに暮らしているなら、世界の中での日本の認知がどうなっても、よいのか?
辺境であることを強みとして、日本列島で平和に暮らしていればいいのか??
「常に外に標準を求める」という、表現に、なるほど、と思った。国であれば、海外の国に、地方であれば、首都圏に、、、自分以外の標準に合わせようとする傾向があるのは、日本っぽい気がする。
組織でも、何かの方針を関係者に説明するのに、その理由を「社長が言っているから」と、自分以外の誰かの判断をもとに、説明している人がいる。
何かの理由や目的を説明するのに、「○○さんが言っているから」というのは、まったく説明になっていない。でも、それが正義の人がいるのが日本の会社の気がする。そしてそういう人が重用され、えらくなる会社。私にとっては、居心地の悪い会社だ。そういうところからは、逃げるに限る。
辺境であってもいい。
実際、辺境だし。
でも、自己判断しようよ。
自己判断するということ自体が、外の標準か?!?!
いや、やっぱり、自分に責任をもつというのは、自分で判断するということではないだろうか。判断材料を身に着けるという事が、学ぶという事ではないだろうか。
ちょっと視点はかわって、
「Ⅳ 辺境人は日本語と共に」で、日本語の面白い特性が記されている。実際には、養老孟子さんの受け売りだ、と内田さん自身が明らかにしているが、
「私たちは言語記号の表意性を物質的、身体的なものとして脳のある部位で経験し、一方その表音性を概念的、音声的なものとして別の脳内部位で経験する。養老先生のマンガ論によりますと、漢字を担当している脳内部位はマンガにおける「絵」の部分を処理している。かなを担当している部位はマンガの「ふきだし」処理をしている。そういう分業が果たされている」
と、ある。
日本語が、マンガ脳を育てた、ということ。
日本人は、漢字とかなをそれぞれ違う脳内部位で処理しているらしい。
面白い。
漢字とかな、という文字を持つのは日本語だけで、かなり特殊であるという事がわかる。多くの言語が、表音文字。タイ文字などは、文字の成り立ちに意味があったりするけれど、音として表記するのに使う。
かなだけの文章は、かなり読みにくい。(かつ、タイ文字は句読点がなくて、単語の区切りもわかりにくい)
漢字とかなを混ぜるというのは、日本人の読書の速さにもつながっているのかもしれない。それは、学びの速さにもなるのかも。
フォトリーディングを勉強したことがあるのだが、日本語のフォトリーディングは少しできるようになった気がするけれど、英文のフォトリーディングは、ちょっと勝手が違う。第二言語だから、という事もあるけれど、漢字とアルファベットでは、同じ文字数で表現できる量はアッという的に漢字のほうが多い。
よく、日本語と英語を両開きで対訳のような構成にしようとすると、英語のほうがどうしても長々とページが続いてしまう。
2000文字の原稿といっても、日本語と英語では、記載できる内容量が異なる。
日本語が母国語であるというのは、学ぶにあたり、とても有利なのである。
そう、辺境であるからこそ、たくさんの翻訳本があり、辺境であるからこそたくさんアーカイブされている環境。
日本語を大切にし、辺境であることを強みにできる、そんな日本にしたいと思う。
そんな日本の一員でいたいと思う。
私にできる一歩。
正しい日本語を使おう。
そして、英訳しても通じる日本語を使おう。