「日本辺境論」 by 内田樹

「日本辺境論」  内田樹

新潮新書 2009年11月20日発行

 

日本人とはどういう人なのか?

日本人は、世界に貢献できるのだろうか?

という疑問に、答えはあるのかと思って読んでみたけれど、

答えがあるわけではなかった。

でも、そうか!

だから日本人はそういう行動に走るんだ!と、共感できることがポツポツ。

日本が世界に貢献できることを探したいと思っているのだが、道のりは遠いという事なのか。。。

 

本書での内田さんのメッセージは、

「日本は辺境であり、日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できる」ということ。常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民、それが日本人。

 

以下、4つのパートからなる本書。

Ⅰ 日本人は辺境人である

Ⅱ 辺境人の「学び」は効率がいい

Ⅲ 「機」の思想

Ⅳ 辺境人は日本語と共に

 

日本人は、辺境人である。だから、中心あるいは外部に標準を求める。自分の行動が、外部の標準から外れていないか、きょろきょろしている。

「私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。」

なるほど、と思った。

一方で、だから、「とことん辺境でいこうではないか」という内田さんの提案には、少し抵抗を感じる。

 

私は、とことん誰かに「保証人」を求めるのは、大人になることを放棄しているような気がする。できるかできないかわからないけれど、辺境人なりのリーダーシップがあってもいいのではないだろうか?

とことん辺境人で行く、それでは、自己判断できないのだから、日本がグローバルに主導権をとれるはずがない。日本人が、自ら主導力を発揮し、グローバルに活躍することはあるだろう。でも、それは、ある、特定の個人としての日本人。日本国が、主導権を発揮してグローバルに貢献したことが、これまでにあるだろうか???

 

少子高齢化社会を、いち早く迎えるのが日本なのだから、日本が世界のお手本となる行動を示していけばいい。ビジネスでも主導権をとれるはずだ。という主張はよく聞くのだが、とことん辺境人でいいとしてしまえば、そうなる日は、来ないような気がする。

べつに、取らなくて、いいのだろうか???

アメリカの属国として、この先も、きょろきょろし続けるのか?

 

誰も、日本国に主導力を発揮してほしいなんて思っていないし、国民一人一人が幸せに暮らしているなら、世界の中での日本の認知がどうなっても、よいのか?

辺境であることを強みとして、日本列島で平和に暮らしていればいいのか??

 

「常に外に標準を求める」という、表現に、なるほど、と思った。国であれば、海外の国に、地方であれば、首都圏に、、、自分以外の標準に合わせようとする傾向があるのは、日本っぽい気がする。

組織でも、何かの方針を関係者に説明するのに、その理由を「社長が言っているから」と、自分以外の誰かの判断をもとに、説明している人がいる。

何かの理由や目的を説明するのに、「○○さんが言っているから」というのは、まったく説明になっていない。でも、それが正義の人がいるのが日本の会社の気がする。そしてそういう人が重用され、えらくなる会社。私にとっては、居心地の悪い会社だ。そういうところからは、逃げるに限る。

 

辺境であってもいい。

実際、辺境だし。

でも、自己判断しようよ。

自己判断するということ自体が、外の標準か?!?!

いや、やっぱり、自分に責任をもつというのは、自分で判断するということではないだろうか。判断材料を身に着けるという事が、学ぶという事ではないだろうか。

 

 ちょっと視点はかわって、

「Ⅳ 辺境人は日本語と共に」で、日本語の面白い特性が記されている。実際には、養老孟子さんの受け売りだ、と内田さん自身が明らかにしているが、

「私たちは言語記号の表意性を物質的、身体的なものとして脳のある部位で経験し、一方その表音性を概念的、音声的なものとして別の脳内部位で経験する。養老先生のマンガ論によりますと、漢字を担当している脳内部位はマンガにおける「絵」の部分を処理している。かなを担当している部位はマンガの「ふきだし」処理をしている。そういう分業が果たされている」

と、ある。

日本語が、マンガ脳を育てた、ということ。

 

日本人は、漢字とかなをそれぞれ違う脳内部位で処理しているらしい。

面白い。

漢字とかな、という文字を持つのは日本語だけで、かなり特殊であるという事がわかる。多くの言語が、表音文字。タイ文字などは、文字の成り立ちに意味があったりするけれど、音として表記するのに使う。

かなだけの文章は、かなり読みにくい。(かつ、タイ文字は句読点がなくて、単語の区切りもわかりにくい)

漢字とかなを混ぜるというのは、日本人の読書の速さにもつながっているのかもしれない。それは、学びの速さにもなるのかも。

 

フォトリーディングを勉強したことがあるのだが、日本語のフォトリーディングは少しできるようになった気がするけれど、英文のフォトリーディングは、ちょっと勝手が違う。第二言語だから、という事もあるけれど、漢字とアルファベットでは、同じ文字数で表現できる量はアッという的に漢字のほうが多い。

よく、日本語と英語を両開きで対訳のような構成にしようとすると、英語のほうがどうしても長々とページが続いてしまう。

2000文字の原稿といっても、日本語と英語では、記載できる内容量が異なる。

日本語が母国語であるというのは、学ぶにあたり、とても有利なのである。

そう、辺境であるからこそ、たくさんの翻訳本があり、辺境であるからこそたくさんアーカイブされている環境。

 

日本語を大切にし、辺境であることを強みにできる、そんな日本にしたいと思う。

そんな日本の一員でいたいと思う。

 

私にできる一歩。

正しい日本語を使おう。

そして、英訳しても通じる日本語を使おう。