牡丹花下の睡猫児

「牡丹花下の睡猫児。学ぶ者、この句を透得して識るべし。若し又、向上の人来らば、更に不伝の妙を施さん。」


柳生新陰流創始者上泉伊勢守信綱の口伝『影目録』から。

 

「牡丹の下で猫が気持ちよさそうに眠っている。しかし人が近づくと、さっと逃げてしまう。猫は本当に寝ていたのか?それとも寝たふりをしていたのか?さあどうだ、答えてみよ!」という公案
柳生新陰流では「新陰流を学ぶものはこの言葉を体得せよ」と言う。


無防備に眠っているように見えて、実はまったく隙がない。

ということらしい。

 

今日の坐禅会での一言、でした。

年老いた猫のように、無心で過ごす。
そうしたいものだ。

世間のストレスとは離れて・・・。

 

「こころを無にし、ひとつのところにとどまることがない。
こころは、何処にも置かない。
そうすれば、あらゆる状況に対応できる。
「放心」「不動心」とも言う。」   
by 沢庵禅師「不動智神妙録」

 

気は配るものではなく、自然に出てくるものだと。

私は、武術、剣術はしたことがないけれど、目を閉じても感じる気、というのはある気がする。

華道でお花を活けているとき、どうもしっくりこないときは、作品の前でちょっと目を閉じてみる。それから目を開けると、何がおかしいのかが、ふと見えてくる。

じっと見続けると何がしっくりこないのかが見えなくなる。

なにかから、自然に出てくるエネルギーのようなもの?

華道の場合、たいていは、余計に生けすぎている。

あるべき空間をなくしている。

一本、抜くと、空気が通る。

 

逆に、エネルギーがなくなっていることに、ふと気が付くこともある。

生け花が、枯れかけた時、ふとエネルギーの衰退のような感じがする。

わざわざ、枯れたかな?と意識してい見入るのではなく、

視界の端に、ふと、生命力の衰退のかけらを感じる感じ。

 

世の中には、「よく気が付く人」と、「気が付かない人」がいる。

後ろから人が来ている気配に気が付いて、そっとドアを手で押さえるひと。

しずくのついた雨傘を、そっと静かに閉じてしずくをまき散らさない人。

席を立つときに、そっと椅子を中に入れられる人。

きょろきょろ見回してそうするのではなく、自然にそういうしぐさが出る。

それは、見ているようで見ていない。

見えないものを見ている。

無心、放心、のような状態だろうか。

 

今日のEureca。 

無心になる。

ということは、見すぎない、という事かもしれない。

 

坐禅の気持ちがいいのは、視界がどこかへ行っているから。

寝ているわけではない。

でも、何も見つめていない。

そのうち、畳の目が水底のような気がしてくる。

 

頭の整理ができなくなったときは、そっと目を閉じて、無心になってみよう。

堂々巡りから抜け出せるかもしれない。

 

日光東照宮の眠り猫も、無心の境地なのかもしれない。

ふと何かに気が付き、そっと抜け出していたりして。

コロナが収まったら、久しぶりに、会いに行ってみよう。