「内田樹による内田樹」 by 内田樹

内田樹による内田樹
内田樹 著
2013年9月20日初版発行
株式会社140 B

 

内田さん自身がご自身の著書や翻訳本について紹介した本。
図書館で目に付いたので借りたのだけどなかなか面白い。
確かにたくさんの著書を書かれてる方はこういう本を時々だしてくださると助かる。

本書の中で紹介されていたのは以下の本たち。
「ためらいの倫理学
「先生はエライ」
レヴィナス序説」著者 コリン・デイヴィス
「困難な自由 」著者エマニュエル・レヴィナス
レヴィナスと愛の現象学
「街場のアメリカ論」「街場の中国論」「日本辺境論」
「昭和のエートス」「おじさん的思考」
下流志向」

これらの中で読んだことがあるのはたったの2冊だった。
紹介されていたのはどれも面白そうだったのでいつか読んでみたいと思う。

そしてこの本を読んでなぜ内田樹さんの本を読むようになったのか、わたし自身の興味が何だったのかがちょっとわかるような気がした。
私が内田さんの本を読むようになったきっかけはもう忘れてしまった。
はっきりとは覚えていないけれど、ほんのここ数年のことである。

 

内田さんの名前が自分の記憶に刻まれたことが2件重なった。

 

山形県鶴岡市出羽三山に星野先達と言う山伏修行を指導されてる方がいらっしゃる。大聖坊という宿坊。数年前に出羽三山に行き、星野先達のお話を直接伺う機会があって、その時に一枚のチラシをいただいた。星野先達と内田さんを含めた数人の方との講演会のチラシだったような気がする。私はその講演会には参加できなかったのだけれどもひどく興味を惹かれたことを覚えている。


もう一つは、知り合いのシェフの、かつての仕入れ先のお魚屋さんであり、師匠でもある方。明石にお住まいの方だが、今は小さな居酒屋を営まれている。その方が、一見すると普通の居酒屋のおじさんなのだが、とても教養の深い方で、いつも文庫本をズボンのポッケに入れていらっしゃり、言葉遊びもお好きな文学少年のような方。少年のようでありながら、歓待上手な大人。初めて会った瞬間に、この人すごい、と思った。
その方が、「 内田樹っちゅうのも面白いなぁ。。」と、ぼそっとおっしゃっていたことがあって、そうか、この方がおもしろいというのは、哲学的に面白いに違いない、と思った。

 

そして、いくつか内田さんの本を読むうちに、なんとなく、共感できる共通項があって、読むようになった。

 

今回「レヴィナスと愛の現象学」についての記載を読んで、Eureca!


レヴィナスの倫理は『善が勝利し得ない社会に自力で善を創り出すために』と言うはっきりした方向を持っています。誰かが自分に代わってこの世界を良きものとしていくくれる事はない。誰かが自分に代わってこの世界に数理的秩序を打ち立ててくれる事はない。この世界が人間の世界である限りそれは私の仕事である。これがレヴィナスの基本的立場でした。
・・・中略
レヴィナスの説いているのは『皆さんこうしましょう』と言う話ではなくて、『私はこうする』と言う遂行的な断言だからです。『みなさんは普通にいきてくださってぜんぜん構わないんです。他者を歓待するというようなことは面倒だからしたくないとおっしゃるなら、それはそれで構いません。それはあなたがたが幼児であると言うことであって、それを私は責めようとは思いません。でも、私はやります。私はきちんと成人していきたいからです。人間と言う名に値するものになりたいからです。それだけのことです』レヴィナスはそう言っている。」

 

内田さんの文章も、何かをせよ!と、説教じみたことを言うのではなく、僕はこう考える、だからこう行動する、という形式が多くて、そこが私が共感するところなのだ。ということに気が付いた。

表現のしかた、というのだろうか。

 

自分のことって、自分ではわからないものである。

 

私は、2020年6月で脱サラして、とあるコンテンツで講師業でもしようかとおもっていた。でも、どうも、人様に何かを提案できるほどに自分自身が大人になっていないということがひっかかっていて、逡巡していたのだが、モヤモヤの理由が、自分の嗜好が少しわかった。


「〇〇しましょう」と、人様に言うの事に向いていない。
「私は、○○します」と、勝手に宣言する方が向いている。

ということで、しばし、自分への宣言を続けてみようと思う。

 

今回は、「もっとたくさん本を読もう」、と自分への宣言。

そして、もっと自分の頭で考えられるようになりたい。

 

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。