教養は幸運な時には飾りとなるが、不運の中にあっては命綱となる  by アリストテレス

教養とか、学ぶという事について、思ったことの覚書。

重要なのは、自分の頭で考えること。

 

日本の教育に関してのレクチャーで、

「教育ではなく、学育が必要だ」、ということを講師が言っていた。
私なりの解釈は、
教育は、教えて育てる。⇒ 他動詞
学育は、学んで育つ。⇒ 自動詞


学ぶというのは、自ら楽しんで教養を身に着ける、という行動のことをいうのではないだろうか。

 

講師が引用していた言葉を一つ。

教養は幸運な時には飾りとなるが、不運の中にあっては命綱となる
 by アリストテレス

 

教養とは何だろうか?
知的であることを教養があるというが、知的とは何だろうか。
私は、ただ、たくさんの物事を知っている人の事を知的な人とは思わない。

 

何かの話をした時に、こうしたいというビジョンを語れたり、自分はこう思う、というような自分の頭の中で考えたことを整理して言葉にできる人のことを素敵だなと思う。
ただ単に物知りな人、そしてそれをひけらかす人は教養のある人という感じはしない。
知的な感じがしない。
たくさんの知識を持っていることと、知的であることや教養があることは全く違うのである。

アリストテレスが言うように「不運の中にあっては命綱となる」ような教養の使い方をできなければ、教養があるとは言えない。

 

やはり自分の頭で考えるということ、そして考えるためにはその判断材料となる知識が必要である。
だから、本を読む。
勉強する。
楽しいから、勉強する。

 

先日、茂木健一郎さんの YouTube を見ていたら、「予習も復習も意味がない」ということをおっしゃっていた。
学習においてである。
え?そうなの?、という気もするけれども、ちょっとわかる気がした。
彼の場合はひたすら過去問を解くなどという試験勉強はしたけれども、学校の授業の予習も復習もしたことがないと言っていた。
授業中に全てのことを理解しようとする。
その集中力も、あるい意味、教養かもしれない。
多分、彼にとっては、それが当たり前にできたのであろう。

 

私は、そこまで頭が回らないので、お金を払って勉強しているものは、やはりそれなりに予習をしてから授業に臨むようにしている。
例えば、今ならば、ワインの勉強は予習してから行かないと言っていることを理解するのでいっぱいいっぱい。
ちょっと頑張って、英語のコースで受けてしまっているので、自らハードルを上げているのだが。

授業中に、先生の話すことを追いかけるのにいっぱいいっぱいになってしまうと、点と点が繋がらないし、ただ聞いているだけになってしまう。
知っていることが出てくると、その日の知識とすでに頭にある知識とが、点と点がつながった時にそれが記憶として定着されるような気がする。
そのためには私にとっては予習は必要。


でも確かに復讐はあんまりしない。

復讐するよりは問題を解くアウトプットするという事の方が良い気がする。

試験対策の話である。

 

まあそうすることで、知識からそれが自分で使える教養になる気がする。
覚えたものを自分の言葉で説明できるようにならないと知識はとして身に着かない。
自分の言葉で説明するって、大切。
かつその覚えたことをどのように生活で実践的に使うか。

 

私は、日本の学校教育の問題は、知識詰込み型であることと感じている。
少なくとも、私が学校に通っていた時代は。
今は、少しは変わってきているのだろうか?


教育とは、何を教えるかという事よりも、どんな人財を育てたいかをとことん考えることの方が必要で、それは、学校だけでなく、会社の人財育成もそうだと思う。

 

人はいくつになっても成長できる。
本人に学ぶ意思がある限り。

 

会社の人財育成とは、「育つ意思のないやつをどう育てるかだ」と言っていた上司がいたが、私は、そうは思わない。

人が育つことの支援をするのが、人財育成。

育ててやっている、みたいな視線になった瞬間、それは育成ではなく上司の自己満足にしかならない。

 

10代のころ、「バカは一生バカでいい」という、セリフを、マンガか?雑誌か?
何かで目にした時に、それもあり、と思った。

ただ、何をもって、バカというかは、人によって違う。

 

自分の中に、判断基準を持とう。

自分の頭で考えよう。