「坐禅とは」何か(六祖慧能のことば)

坐禅とは」何か(六祖慧能のことば)

外於一切善悪境界心、念不起名為坐、内見自性不動名為禅

 

今朝の坐禅の言葉でした。

六祖慧能とは、達磨さんから数えて、6番目の慧能(えのう)。

 

外、一切の境界において心念起こらざるを「坐」と為し、
内、自性を見て不動なる(動かざる)を「禅」と為す。
『六祖壇経』

 

心が動かない。

外を気にして雑念を生じることを一切やめる。

それが、坐禅

そういう坐ができたら、自性(=自分の本来の在り方)を見て、それが不動であることを知る。

それが禅。

不動とは、動かないという事ではない。

 

 

六祖慧能 の有名な言葉。

 

六祖慧能は、もともと、無学で学問に深い人ではない。

六代目に選ばれたきっかけが次の詩。

 

菩提本無樹 明鏡亦無臺

菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い

本来、無一文。

何かに例えて悟りを表現しようとしても、そんなことはできない。

イメージとか、論理では、本来の心は描けない。

もっと、先に行ってみろ、ということ。

 

六祖慧能の教えは、その後日本で広がった南宗禅といわれ、

坐り続けることで、ある日、ぱっと悟。とされている。

これに対して、

坐り続けることで、徐々に悟っていく、というのが北宗禅という。

 

どっちでもいいけど、感覚的にはある日、ぱっと、悟。

が、続く感じがする。

まぁ、それが、徐々に悟っていくということなのかもしれないけど。

 

私には、無になる坐禅は、まだまだ遠い。

毎回、雑念、煩悩だらけである。

足がしびれてくると、そのうち、雑念が消えて、足が痛い!の思いで頭が占領される。
。。。

いや、そうじゃないんだよね。

本当は。

 

なのに、なぜ、坐禅をするのか。

時々、無になることがあるから。

あ、いま、無だった、と気が付く時が気持ちいいから。

 

不動の境地には、まったく至っていないけど、

そのうち、ぱっと、悟ることがあるかもしれない。

 

不動とは、動かないという事ではない。

ちょっと、わかりにくい。

 

沢庵禅師の言葉によると、

坐とは、外境に対して、念を起こす(考える)ことを止める=「止観」
禅とは、自分のこころが「不動」であることを見る(確認する)
「正念」=「不動智」 
ただし、固まった不動ではなく、全てに行き渡るこころ
不動と言っても石か木のように固まるのではなく、四方八方へ心は動きたきように動きながら、卒度も止まらぬ心を、「不動智」と申し候

 

不動とは、自分の存在に没入する。

目の付け所は、どこかに目を付けるのではなく、四方八方に心は動き回る。止まらない。一見動いていないように見えて、100%動いている。それが、不動智ということらしい。

 

動かないことで、四方八方へ心が動かせる。

 

養老孟司先生曰く、全てのアウトプットは行動・運動という形をとる。

音に反応して、音のほうに顔をむけることすらアウトプット。

筋肉を動かして首を回すから。

坐って、じっと動かないことで、アウトプットを遮断することで、インプットである五感が研ぎ澄まされるのかもしれない。

 

それが、坐禅をしていて、気持ちいいと感じるわけかもしれない。

個人的感想であり、極めて主観的な感想だけど。

 

あ、ちょっと、Megureca。

坐っている間、考え事はしないけど、五感は動いている。

それが、気持ちいいのかも。

 

悟りには程遠いけど、来週も坐ってみよう。