「古寺巡礼」 by 和辻哲郎
1991年1月24日 第一刷発行
(元資料は、1947年3月「古寺巡禮」)
大正七年の五月、20代の和辻は唐招提寺・薬師寺・法隆寺・中宮寺などの奈良付近の寺々に遊んださい、飛鳥・奈良の古建築・古美術に相対し、その印象を若さと情熱をこめて書きとめた。
元祖、「美の旅エッセイ」、というかんじ。
20代の旅の記録ということで、全体に本当に若々しい感じがする 。
壁画、仏像、観音様、それぞれに彼が感じた感想が若々しいのである 。
絵や仏像として目にした美しい女性の姿に、果たしてこれはどのようなモデルだったんだろうか、と考えを巡らせたり、昔の時代の女性の生き方に思いを巡らしてみたり。
天平の時代、代表的婦人の肖像はないそうである。
そのために、「万葉集 」の時代の女については、姿形の描写ではなく、女性の生き方に話がおよんでいる。当時から、結婚も離婚もあった。愛する人から、愛を得られなくなるという悲劇は昔からあった。
そして、その愛を失わないためには、その時代、
「女はその恋愛の幸福を保ち続けるために、ただその官能の魅力のみに頼っていることはできなかった。万葉の女の歌が、男の歌に劣らず優れているのはそのためでないとは言えない。」と書いている。
なるほど。面白い考察。若者っぽい。
女のどんなところに男は惹かれ続けられるのか。。。
若さという美しさが薄れていくとき、女はより知性に磨きをかけるべきなのね。
今の時代も同じかも。
美肌クリーム塗ってアンチエイジングにいそしむだけでなく、知性も磨かないとね。
観音の描写が、なまなましくて、楽しい。
薬師寺東院堂聖観音。
「私は小僧君の許しを得て厨子の中に入り細部を観察したが、あの偉大な銅像に自分の体をすりつけるほど近よせた時には、奇妙なよろこびが感じられた。
美しい 古びた銅のからだから、一種の生気が放射してくるかのようであった。ことにあの静かに垂れた右手に近よって、象牙のように滑らかな銅の肌をなでながら、横から見上げた時には、この像の新しい生面が開けるかのようであった。単純な光線に照らされた正面の姿のみを見たのでは、まだ臣にこの像を見たとは言えないと思う。
あの横顔の美しさ、背部の力強さ、ーーー背と胸とを共に見るときのあの胴体の完全さ、ーーーあの腕も腰も下肢もすべて横から観られたときにその全幅の美を露出する。
特に、肩から二の腕へ、肩から胸へのあの露わな肌の肉づけには、実に驚くべきものがある。この傑作の全身が横からでもうしろからでも自由にながめられないということは、まことに遺憾に耐えない。」
観音への鑑賞にひたりきっていて、引き込まれる。
肉体の肉感的な表現が何とも楽しい。
エロチック。
薬師寺の観音様に会いに行きたくなった。
2020年、コロナの中ではあったが、友人と滋賀県 渡岸寺観音堂(向源寺)に行ったとき、十一面観音菩薩立像を、前から横から後ろから観る機会があった。
それはそれは、、、思わず口を開けて見入ってしまったものである。
確かに、観音像というのは、全身を自由に眺められると、ほれぼれしてしまう。
古い本だけれども、美の鑑賞というのは、いつの時代にも変わらないものである。
今読んでもみずみずしい。
ゆっくり、奈良・京都に旅をしたいものである。
コロナよ、はやく終息しておくれ。。。。
そうだ、旅に出よう。