「コロナ後の世界を生きる」から話題提供 隈研吾さん

「コロナ後の世界を生きる 私たちの提言」

村上陽一郎

岩波新書

2020年7月17日第1刷発行

 

P.172 「コロナ後の都市と建築」 隈研吾、から、覚書。


隈さん、言わずと知れた建築家。 オリンピックのために建て替えた、国立競技場のデザインをした人。自然と調和する建物を作ってくれる人。

 

 

隈さんのメッセージは、ハコ(巨大なビルなど)を飛び出して、公共の空間をのびのびと歩こう!それが、自分のためにも地球のためにもやさしい。

 

”疫病は都市や建築を何度も大きく転換させ作り変えてきた。
ペストによって中世の密集した町と狭い路地は嫌われ、ルネサンスの整然とした都市と幾何学が支配する大振りな建築が生まれた。パンデミックは、都市も変える。”


”【ハコからの脱却】
20世紀に人々はハコに閉じ込められた。ハコの中で仕事をする方が効率が良いとされて、超高層ビルに代表される大きなオフィスビルや大工場に一定時間閉じ込められて働かされた。出産や子育ての時期にはハコに通うことが難しい女性に大きな犠牲を強いた。”

通えないから、働けない。働けないなら、離職、、、という。

そして、コロナでは多くの人がそのハコに通うなと言われた。

 

ハコのない時代。

 

古代ギリシャアリストテレスの一派は歩廊で歩きながら講義を行い、逍遥学派と呼ばれた。歩きながら思考するという方法は、アリストテレスの師プラトン、その師であるソクラテスから学んだと言われている。

歩くということは、いつも一人でいるということであり、自由であるということである。

公園は空調しなくても十分に気持ちがいいがハコは空調し続けなければならない。
ハコの文明は空調文明でもあった。 それは同時に石油文化でもあった。そして今それは長く続かないということに人々は気付き始めている。

ハコからの脱却は室内からの脱却ということでもある。”

 

たしかに、隈さんの言う通りだ。私が勤めていた会社も、全館空調だった。窓も開けられない。全館空調で、自分たちで温度設定ができず、決して快適な環境ではなかった。まさに与えられた空間に閉じ込められて、仕事をさせられていた、、、ということだったのか。

ガンガン空調にエネルギーを使い、それでいて、SDGsだ、環境保全だ、とかいうのだから、足元をみつめよう、、、という感じ。

ハコからの脱却、大賛成!

歩くの大好き!

歩きながら考え事をすると、じっとしているより頭の整理になる。

この一年、旅に出られない分、散歩が増えた。

仕事をしない一年、歩くことで内省する時間が増えたので、一日の充実感が仕事をしているより大きかった気がする。

 

”【『密』空間の増殖】
昔は多くの人がもっと多くの時間を外で過ごしていた。誰もがアクセスできる空間を地図上の白とすると、東京においては道路もまた車という「私」によって占有されている黒い空間であり、白は限りなく小さく、その小さな空間に人がひしめきあってコロナの温床の密空間が生まれたのである。
白い場所すなわち誰でもアクセスできるパブリック空間の中で、どう振る舞うか、その問題も今日のコロナによって新たに我々に突き付けられた。”

 

”【ホールの距離感】
人間と人間の距離については、エドワード・ホールの「かくれた次元」という名著がある。ホール自身は文化人類学者であるがこの本の面白さは、動物同士の距離 ー 敵からの逃走距離、仲間とコミュニケーションを行う際の距離 ー のスタディから論を始めていることである。生と死の境に立たされて、我々は自分たちが動物であることと向き合わされ、動物として、他の個体と距離をに神経をとがらせている。”

 

エドワード・ホールさんのことは知らなかったけど、人によって不快と感じる距離感が違うのもはよくわかる。イタリアではあっという間に感染拡大したけれど、あれだけ、スキンシップが多く、会えばすぐにハグしてチューしていれば、そりゃ感染もするだろう。その点、日本は、人と人との距離が大きい。普通、人とあっても、せいぜい、握手くらい。その時点で、感染リスクはだいぶ違う。だけど、満員電車には乗れる。日本人の七不思議?!

 

”【筋肉の参加が生み出すもの】

ホールも指摘しているのが、アメリカ人と日本人の距離に対する繊細さの相違。アメリカ人の触れるか触れないかという極めて単純な基準でつくられたのが、超高層オフィス、すなわち巨大なハコ。

日本人は、踏石や段差などで筋肉に働きかけながら、空間の中に様々な場所を作り、様々な種類の距離をつくる。それが日本庭園。日本人が感じる快適さ。”

 

歩くことを前提とした空間。

”歩くことによって空間を認識する時に、筋肉感覚が動員されることになるのだ。”


歩くことの大切さ。

なるほど、歩くこと、そして発想がうまれる。

 

”【偶然の産物だった屋根のない国立競技場】

建て替えられた国立競技場。第1回のコンペで選ばれたザハ・ハディドの案に対して、最終的には当初予算の倍近くの工事費がかかるデザインであることが明らかとなり彼女の案はキャンセルされた。 第2回目のコンペでは工事予算の絶対厳守がうたわれ、屋根は載せないという条件での提案が求められ僕(隈さん)の案が選ばれた。

風通しの良いスタジアムが木でできていることもそれが一種の庭園的方法によってデザインされたこととつながっている。

疫病の後に世界は庭をめざすのか、それとも重装備の大きいハコを作りより完璧なエアコンを完備して無菌の世界をめざすのか、その二択が我々の前にある。コロナへの様々な対応を眺めていると、大きなハコがすぐに消えるとも思えない。少なくともハコはハコとして残るだろうハコが急に消滅するわけではない。”

 

そして、隈さんの最後のメッセージは、

”僕はハコの隙間を一人で、慎重に距離を測りながら、歩き続け、歩きながらはたらこうと思う。そのように歩き始める人間が増えた時、ハコの隙間は十分にひらかれた白い場所(誰もがアクセスできる場所)、十分に風の通る庭へと変身していることであろう。”

 

建築家の視線からの、安全な白い場所(誰もがアクセスできる場所)をふやすこと、そして歩こう!とい、提言。

 

私も歩くのが好きだなので、大賛成。

都内に出かけると、気持ちよく歩ける道は、なかなかない。

でも、たしかに、そんな場所が増えたらうれしい。

緑があると、なお嬉しい。

 

パンデミックから、町のありように視点がいくというのが、建築家視点。

これまで、パンデミックに関する本は何冊もよんできたけど、都市のありようというのは、新しく気づかされた点だった気がする。

 

人によって、視点はことなる。

それぞれの人の立場。

エッセンシャルワーカー側の立場。

支援される側の立場。

 

色々な立場があるけど、全てに思いをはせることはできないかもしれないけど、

色々な立場の人がいるという事を忘れずにいよう。

 

歩くのが気持ちい街づくり。

協力したくなった。

自分ができることを考えよう。

 

自分の頭で考える。

それが、大事。