「日本精神の研究 人格を高めて生きる」
A study of the Japanese Spirit
安岡正篤 著
平成17年1月8日第1刷発行 (2005年)
致知出版社
東洋思想を研究している知人からの薦めで手に取ってみた。
図書館の本。
なんと全編にふりがながついている。
2005年に編集し直されて発行されたものだが、元の発行は1924年大正13年のもの。文章自体は、古い文体のまま。
○○ねばならぬ。
○○するのである。
○○たらしめる。
と、史実に基づいた、あるいは思想に基づいた、断定的な表現と、
○○と思う。
と、自身の思想を提案するかのような表現。
内容は難しいものの、文章は地に足が付いたというのか、リズムよく、読みやすい。
あいまいなところがなく、時代背景として戦前であることから思想としては、朕即国家といった現代にそぐわないもののあるが、大半は今に続く思想の原理原則の提案となっている。
しっかり、読み込むには、多くの時間が必要そうだ。
今回は、本書の全体を把握するという目的で、読んでみた。
安岡正篤は、1898年2月13日大阪生まれ、陽明学者である。幼い時に「大学」の素読をされた。やはりこの時代は「素読」なのである。
本書は、 初版の一部を削って、山鹿素行、吉田松陰、高杉晋作、高橋泥舟、楠木正成、大塩中斉、西郷南洲、宮本武蔵などの人物を加えた昭和12年の増補改訂版を基にしたもで、安岡先生の没後20年に、息子さんの安岡正泰さんが、まとめられている。
産業革命がおこり、物質文明が発達し、人が機械化してしまったことを安岡先生は嘆いている。人の機械化は人格の破綻をもたらしている。人が商品化され、物欲的生活が時代の流れとなる。 物欲にまみれた人間的生活を見直して、人格的生活を取り戻そう、というのが伝えたいことだったと思う。
安岡先生をして、思考のよりどころとしているのが歴史上の人物である。
やはり、歴史に学ぶというのは大事だし、歴史しか前例を示してくれるものはない。
その史実をどうとらえるかが、各人の思考にしどころだろう。
自己判断のよりどころのために、歴史を学ぶという事の大切さを、改めて考えさせれた。
日本の歴史も、世界の歴史も、今一度学びなしてみよう。
山鹿素行は、林羅山という朱子学の師匠につきながら、陽明学を切り開いていった人。山鹿素行の士道論の三つの軸は、
「道を志すこと」
「己の職分を知ること」
「その所志を勤行すること」
物の上に生きずして、醇正なる精神に生きる人の目指すべき軸。
唯物的機械的文明にまみれて、法律や経済といった知識を得ることで満足するのではなく、醇正なる精神に生きる人は、生きる本(もと)に立っている。
人格涵養をめざしたのが士道論。
そのために山鹿素行は、心術論として、養気・義利・志気・度量・安命・清廉・正直・剛操・風土・温藉、を説いている。
一つ一つ、私自身の理解が追いつかないだが、精神論のようにも思うが、実行が伴わなければいけない、ということ。
本書全般を通じて、難解な内容であるのだが、いくつかの言葉を覚書としておきたい。
「死の覚悟なき真の生活はない」
「自由とは自己の行為が自己の人格にその原因を有し、何か他に律せられることなき状態を言う」
「 諸外国で行われる革命と日本のとを区別するために、わざと「革命」の語を忌んで改新とか維新とか言うのである。」 (海外では、革命というのは王を追放することだが、日本において天皇を追放するということはありえない、という文脈のなかで)
「悪と悪者とが同じではないことを弁(わきま)える。」
「創造的な人格活動こそ価値がある」
先日、参加した「7つの習慣」の読書会のなかで、人格はどうやったら高められるのだろう、という質問をした人がいた。人格は、高めようと思って高められるものなのだろうか? というのが、私自身の疑問。
そもそも、人格とは何か?
「道を志すこと」
「己の職分を知ること」
「その所志を勤行すること」
という、「知行合一」の実践をしていくなかで、人格はできていくものなのではないか?_
という気がしてきた。
そもそも、人格というのは、自分で「人格を高めました」とか言う性質のものではないし、「人格を高める」という事を目標にするものでもない気がする。
人格:Personality
じつは、難しい言葉だな、と思う。
陽明学、よくわからないけど、もう少し、触れてみたいと思う。
先日、とある大学生が、「山鹿素行はわかりやすい」と言っていたので、山鹿素行から勉強しなおしてみようかと思う。