「コモンの再生」
内田さんの本だから図書館で借りてみた。
元々は GQ JAPAN という雑誌に連載中のエッセイの単行本化。
サラーーっと読み。
タイトルはコモンの再生となっているがエッセイとして、4つの大項目がある。
Ⅰ 公共を再構築する
Ⅱ これからの政治を語ろう
Ⅲ 隗より始めよ
Ⅳ 揺らぐ国際社会
トピックは政治経済から結婚、読書の感想など多岐にわたっている。けれどもその中でも、やっぱり共通なのは「コモン」なのかな?、ということで「コモンの再生」がタイトルになったとのこと。
コモンは(common)というのは、形容詞としては
「共通の、共同の、公共の、普通の、ありふれた」
という意味ではあるが、名詞としては、
「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」のこと。
昔はどこでも村落共同体は「共有地」を持っていた。 みんなが、いつでも、いつまでも、使える土地。みんなが、使える土地というのは、「私たち」の土地。その「私たち」という概念が、資本主義の発展によって土地が私有地化され、値段がついて、きえていった。
内田さんは、その「コモン」を取り戻そう、と言っているわけだ。
表表紙の裏書。
「僕からの提案なんですけれど、『地方創生』を本気でやるつもりなら、いっそ『逆ホームステッド法』を作ったらどうかと思います。一定期間誰からも所有権の申し立てがない無住の土地家屋は公有とする。そして、今度はそこに住んで5年間生業を営んだ人に無性に近い値段で払い下げる。
土地って本来私有すべきものじゃないと僕は思います。誰かが一定期間管理責任を負うのはいいけれど土地は絶対に私物ではない。」
土地なんぞ持っていない私も、そうだそうだ! と思う。
と、公共ということが内容の中心ではあるが、他にも多岐にわたる話題が。
禅の考えとも近いな、と思ったのが、
「二項が拮抗する、その『あわい』にしか人間が住める場所はない。」
という話。
善と悪、昼と夜、戦争と平和。そのどちらかだけに偏ることはできない。
だから、どちらか一方で一喜一憂してはいけないということだろう。
いいこともあれば、悪いこともある。
調子のいいときにも、油断してると転ぶ。
それが社会というものだろう。
内田さんが質問に答える、という形のページがあるのだが、その中で私も聞いてみたいと思った質問があった。
Q 最近の日本では、人が何か失敗すると奈落の底まで叩き落として復活なんか絶対に許さない雰囲気があるように感じています。いつから日本人はこんな感じなのでしょうか?
内田さんも、どうしてなんでしょうね?といいながら、話が続く。
”日本では、際立って抜きん出た人が出てくると、「なぜか足を引っ張る」「出る釘は打たれる」というのがデフォルトになっている。”
”それは、日本では「エリート」が「世界標準」を創出して社会に貢献していくれる、と考えるのではなく、「エリート」は、高い地位にいて、権力・財貨・文化資本を享受していい思いをしている人たちのことだから” ではないかと。
エリートに「ノブレスオブリージュ」という意識もなければ、国民が「エリート」が社会価値への貢献をしてくれるとも思わない。
一人でいい思いしやがって、、、、ってことか?
なんて、ちっちゃい、、、。
と、おもうけど、事実そうかもしれないけど。
「足を引っ張る」とか、している暇あったら、もっと自分のこと考えればいいのに、と思う。
東京2020の関係者の過去のイジメや差別発言も、確かに許されることではないかもしれないけど、一般の人が、ネットでそれをあれこれ言うのは違う気がする。
人の過去の過ちをあれこれ指摘して、つるし上げる暇があるなら、もっと自分の人生が豊かになることをすればいいのに、と思う。
だれでも、過去に間違ったことをしてしまったこと、取り消したい過去の過ちの一つや二つ、、、あるだろう。
たしかに、程度っていうのはあるかもしれないけど。。。
健康に関する話題もおもしろかった。
「健康志向」も、適度が大切。
不健康の基準なんてあいまいだ。
そうだそうだ!
高血圧だって、かってに基準の数字を変えて、高血圧患者を増やして、薬漬けにして、、、、とおもってしまう。
健康診断で、病気になるのだ。
知らぬが仏で、ぽっくり死んだほうが幸せかもしれない、、なんて、ふとどきなことを思っている。
不治の病でもないのに、自ら命を絶つというのは、やっぱり、私は賛成できない。
でも、好きなことして、たのしんで、
自分で不摂生して、ひとりでぽっくり逝ったら、それはそれで、死んだもん勝ちなんではなかろうか。。。なんて、思ってしまう。
いやいや、もちろん、健康一番と思っているけど。
ぽっくり死ねないで、後遺症に苦しむのは嫌だけど。
やりすぎの健康志向は、不健康だ。
かつ、それを人に強要するのは最悪だ。。。。
コモンということを、みんなが意識できなくなってしまったのが、一人一人の人生に余裕が少なくなってしまったからではないだろうか。
サラリーマンを辞めて、フリーになったら、驚くほどストレスが減った。
別に、会社が嫌でやめたわけではなかったのだけど、やはり、時間の拘束は長かった。
それがなくなったら、素晴らしく快適になった。
もちろん、収入は減ったけど。
コロナで、たいしてお金も使わないから、特にお金の心配もない。
ほどほどの健康を目指して、ほどほどに稼いで、
結構、幸せだ。
だから、ちょっと「コモン」を考える余裕ができた気がする。
「コモン」から享受しているサービスに感謝し、今日も分別してゴミをすてよう。