「日本人は、自己肯定感が低い」、とか、
「自己肯定感を持とう」とか、
よく耳にする言葉だと思う。
自己啓発の本や講演では、必ずと言っていいほど、目にし、耳にするのではないだろうか?
私も、自己肯定感はそれなりにあったほうがいいと思うし、もっと自己肯定感をもつと人生楽しめるのではないか、と思う事もある。
でも、やたらと、自己肯定感をもて、とか、ポジティブシンキングで、と言われることには、違和感も感じている。
その違和感の正体のようなものが、「世界は善に満ちている」をよんでいて、ちょっと触れられたような気がした。
著書のなかで、哲学者が学生に答える。
以下、抜粋。
哲学者 :ここ十年くらい、「自己肯定感」という言葉が使われることがとても多くなりましたね。本屋に行くと、そういう感じのタイトルの本があふれていますし、ネットでもこの言葉が使われることがとても多いと思います。
学生 :そうですね。先生の「肯定の哲学」もその流れに棹さすものではないのですか?
哲学者 :人間が生きていくにあたって、「肯定」というものがとても重要だと考えるという意味においてはそうですね。
学生 : なんだか、先生の「肯定の哲学」は、それらとは違うと言いたそうですね。
哲学者 :はい。「自己肯定感」を主題にしている本では、やはり、文字通り、「自己」を「肯定」することの大切さが強調されていることが多いと思うのです。
この後も、会話は続くのだが、哲学者が伝えたいのは、
すべての人は、世界と切り離しえない。
世界の中で生きている。
だから、自己を愛するという事は、世界の様々なことを愛するという事。
世の中はろくでもないけど、自分だけは愛してる、という事はあり得ない。
ということ。
「自己肯定感」とは、「自己」だけを肯定することではない。
すごく、共感した。
自己肯定感が高い人と言うのは、周りのすべての事物、人物と触れ合うことを好み、その事物、人物から何らかの感情が揺り動かされ、自分の心が動く。
自分を肯定できるというのは、世の中を肯定できるという事なのかもしれない。
世間のこと、政治のこと、文句ばかりを言っている人よりは、世の中を愛せる人。
世の中には解決すべき課題もたくさんあるけれど、それでも生きていることに感謝して、世の中を愛して生きている人のほうが、自分自身のことも愛せる。
ちっとも、平等でも公平でもないし、もう、こんな世の中なんて、、、て思うときもあるかもしれないけれど、今ここに私が存在しているという事そのものの奇跡を愛する。
一方で、「日本人は自己肯定感が低い」というような使われ方をするとき、日本人は世界を愛していない、という事ではないと思う。
愛するという事の表現手段を、多く持っていないというだけのことではないだろうか。
日本なりの表現があるというだけのことで、何も、グローバルな愛情表現をすればいいということではない。
○○らしく、という言い方はあまり好まないけれど、○○なりの、、というのはあると思う。
世界は、善に満ちている。
世界は、興味の対象に満ちている。
興味を持ったことに、心揺さぶられてみよう。
自分のなかで、そっとそれを楽しんでみよう。
SNSへの投稿なんてしなくても、自分の中にある喜びを味わえばいい。
自分でそれを楽しめるという事が、自己肯定ということ。
SNSのいいね!の数ではない。
あ、いいな、と感じられる自分を認めること。
他の誰かがいいね、と言っていなくても、
自分が、いいな、と感じられるという事、それ事体が善に触れられたという事。
心揺さぶられることを楽しもう。
オリンピックを楽しもう。
素直に、努力しているアスリートに拍手喝采できるという事、
素敵なことではないか。
他者を応援できる心。
それも、自己肯定につながる。
人は、社会的動物である。
そういう事なのだ。