「小我と大我」 禅の言葉

小我と大我
しょうがとたいが

 

今日教えていただいた、禅の言葉

 

Small I と Big I

小さい自分と、大きい自分。

 

さて、その意味は?

 

 

お釈迦様は、生まれた時に七歩歩いて、一本の指で天井をさし、一本の指で床を指して、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と言われたと伝えられている。

唯我独尊は、自分だけが尊いといううぬぼれた考えといわれることがあるが、そうではない。

 

ここでの、我は、大我ということ。

 

自己(=我)は、色々な環境に囲まれている。


空間軸では、

隣の庭、道路、環境、地球、銀河系、星雲、宇宙のはてまでつながっている。自己の内部に行けば、神経、筋肉、内臓、60兆の細胞、遺伝子、分子、素粒子までつながっている。


時間軸では、

ビックバン以来、無機物の時代から、進化をして変わってきて、遠い先祖がいて、両親がいて、自分がいて、将来につながっている。

 

こういう中で、自分というのを中心に書いてみると、真ん中の小さな点、小さな我、小我になる。
空間軸、時間軸に囲まれた、小我。

 


それが、坐禅をすると、空間軸の全体が自分になり、時間軸の全体が自分になる。
それが、大我。

自己があるだけではないのが、大我。

 

天上天下唯我独尊」でいう「」というのは、全体が自分ということ。
“私だけが尊い”という意味をあらわしているのではない。
全体が尊いということ。

 

空間的にも、時間的にも、全てを含んだものが自分。

人間は何らかの条件によって尊いのではなく、空間的にも時間的にもすべてを含んだ人間としての人間が尊い

 

能力、学歴、財産、地位、健康などの有無を超えて、その人がそこに存在することが尊い。そいう事なのだと思う。

 

坐禅をしても、いつも雑念だらけなのだが、私の雑念は、そういう意味ではかなり小我の雑念だ。

 

今日、何食べようかな、とか。

あれ、どこにしまったかな、とか。

 

自分の身の回りの雑念ばかりだ、という事に気が付いた。

 

ちっちゃい世界のことばかり、考えているんだな、、と気が付かされる。

 

坐禅は、無になる時間なのだから、雑念に優越があるわけでもないのだけど、自分の小我に気づかされた感じ。

 

今度坐禅をするときは、宇宙に思いをはせてみよう。

小さな雑念が消えるかもしれない、そんな気がする。