「山月記」 by 中島敦 (現代語訳: 小前亮)

山月記 さんげつき」
中島敦 著
現代語訳 小前亮

2014年8月
理論社 スラよみ!現代語訳名作シリーズ

 

「世界は善に満ちている」のなかで、引用されていたので読んでみた。

megureca.hatenablog.com


山月記」は、短いお話である。

中国の唐の時代、李徴という、才能豊かな人の話。若くして難しい試験に合格して役人になる。でも、自分はもっと立派な人間で、役人なんぞはつまらない、といって、辞めてしまう。詩人をめざすが、貧乏に苦しみ、、、生活はどんどん困窮する。やむを得ず、役人の職にもどるが、かつて自分より劣るとみていた同僚はすっかり組織の中で地位を確立し、自分は下働きの身。卑屈になっていく中で、ある日、とうとう気がふれて、、、、気が付くと、虎になっていた。そして、、、。


中島敦は、明治42年(西暦1909年)東京に生まれ。作家としてのデビューは昭和17年32歳の時。そして33歳で、喘息で亡くなってしまう。。。作家として活動したのは、わずが2年。
その彼の「山月記」が、高校の教科書に多く掲載されるようになって、文学史では必ず取り上げられる重要な作家になった。

 

今回は、現代語訳で読んだ。


お話の内容としては、知っていたような気もするし、はじめてちゃんと読んだような気もする。


自らの才能に自信を持ちながら、世間が認めてくれないと挫折し、自分の内面が原因となって、虎になってしまった主人公、李徴。なにか悪いことをして、その罰として虎にさせられてしまったのではなく、自分の内面が原因で、気が付いたら虎になってしまった。
そして、虎の姿でかつての友に森の茂みの中で会ったときに、虎と人間の気持ちを行き来している自分を素直にあかし、虎の自分は、友のことを友と認識できずに襲ってしまうかもしれないから、もう、二度とここには立ち寄ってくれるな、と懇願する。

 

解説で、訳者の小前さんは、
”誰もが生きたいように生きられるわけではなく、人生には挫折がつきものです。他人を羨ましく思ったり、妬んだりするのも、人間として当たり前の感情です。人は皆、心の内に虎を飼っているわけで、ともすればそれに飲み込まれてしまう恐れがあるのです。李徴とならないためにどうしたらよいのかを考えるのも、試練を乗り越えるのも、現実に折り合いをつけて生きていくのも、結局は自分自身ですが、誰にでも訪れる問題だと理解することが解決の助けとなるでしょう”
と、書いている。

 

自分の内面の問題、自分との葛藤で、虎になってしまった男。

「世界は善に満ちている」のなかでは、善も悪もすべては愛から発生する、と教えている。李徴の場合は、自分の詩の才能への愛だったのだろうか。あらゆることは、自分から発生する。

 

自分の才能に執着する、自分の才能を愛するというのは、大切なことでもあるけれど、それが誰も幸せにしていないのであれば、自分すら幸せにしていないのなら、そこにあるのは善ではないのかもしれない。

 

現実の世界では、虎に姿がかわることはないだろうけど、こころが意固地になってしまう事はあるかもしれない。

 

固まってしまった自分の心を溶かすことは、自分にしかできない。

 

李徴にとっては、「もうここには立ち寄ってくれるな」と、友に永遠の別れを告げることが、愛だったのかもしれない。そして、自分も心安らかになれる時だったのかもしれない。

 

自分の心は、自分にしか運転できない。

心のハンドルを、自分でしっかり握っておこう。

アクセルを踏むときには、ブレーキも忘れずに。