「吉本隆明 最後の贈りもの」by 吉本隆明

吉本隆明 最後の贈りもの」
吉本隆明
潮出版社
2015年4月20日

 

戦後最大の思想家と言われる吉本隆明さん。1924年東京月島生まれ。

 

若い人には、吉本ばななの父親と言った方が馴染みがある人も多いかもしれない。 かくいう私も、吉本隆明さんの書籍はそんなに読んだことはない。思想家ということより、美味しい物好きの食いしん坊、とかってにイメージしている。吉本ばななさんのエッセイに登場するイメージからだろうか? それでも、詩とか、日本語とか、言葉とか、、、そういうことに興味があるし、昭和の思想家の言葉に興味があって、本書を手に取ってみた。

 

難しいところもあるけど、爽やかな気持ちになる一冊だった。

爽やかというか、自分の未熟さを思い知らされて、ははぁ、降参です!と開き直れる感じ?


吉本さんは2012年3月に87歳で亡くなっている。つまり本書は吉本さんが亡くなった後に出版されている。それまでに吉本さんが語られてきたことや、未発表のインタビューなどをまとめたもの。


私にはよくわからない、難解な、と思う箇所もあるし、なるほど、そういう事か、と大きくうなずいた個所もあった。


最近、小説や詩を読んでいて、いいなぁ、と感じるものと、つまんないなぁ、と感じるものの違いが言葉で言い表せなかったのだけど、一つ、なるほど、そういうことか、と思ったのが、
「詩の中には、主観性と客観性が共存していなければいけない」という吉本さんの意見。

 

俳句としちゃ芭蕉がダントツに優秀、とおっしゃる吉本さんによると、
「あらたうと青葉若葉の日の光」 by 松尾芭蕉
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 by 松尾芭蕉
「五月雨をあつめて早し最上川」 by 松尾芭蕉


一見すると、客観的な風景描写のように読めるが、
「あらたうと」「しみ入る」「あつめて」 と、表現に主観的傾向があると。

 

なるほど、そうかもしれない。
ただの描写ではなく、詠み人の視点での主観的表現でうたわれている。
ただ、景色が思い浮かぶだけでなく、その景色を目にした人が感じたその時の心の受け止め、とでもいうのだろうか。なるほどねぇ、と納得。

 

小説でも、ただ淡々と物語が進むより、何かしらの想像力起動スイッチが押される物語に心奪われる。主観的表現が、そうさせるのかもしれない。

 

 

道浦母都子さんから吉本さんへのインタビューで構成されている章がある。

道浦さんのことも知らなかったが、
「炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る」が有名な方らしい。

東京大学安田講堂攻防戦のあとの詩。

吉本さんは、「この人はちゃんとできていたうえに、自然を獲得していて、抜かりない」と讃えている。安田講堂の事件を身近に感じていない私としては、ふ~~ん、という感じの詩だけど、当時、歌人としての鮮烈デビュー作だったとのこと。


そして、その二人の会話に、「サラダ記念日」が話題として出てきて、現代の短歌には、自由が増えて短歌の世界のすそ野が広がった、という話をしている。

万葉の短歌から、斎藤茂吉の「死にたまふ母」、そして、俵万智「サラダ記念日」。

 

サラダ記念日、1987年の出版というから、もう34年前!!
鮮明に覚えている。
「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」が、本のタイトルとなった短歌。
個人的にすごく残っているのが、
「寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら」

 

吉本さんは、サラダ記念日をほめている。道浦さんは、ほめていなかったらしい。で、二人の対話の中で、とは言っても、やはり短歌の世界を広げたという事も含め、素晴らしい、、、という話になっていく。

 

「寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら」

なんて、セツナイ。

今でも、口にすると、ちょっとセツナイ。

世の中に失恋というものがあるのかもしれない、と気づき始めた十代の私に、強烈に響いた。当時、毎週、海に行っていた。ヨットに乗っている間だけは、人間関係とか勉強とか、煩わしいことをすべて忘れて、海と一つになろうとして、他のことは考えずにすんだ。
でも、現実は現実としてそこにある。
波を「しぐさ」と表現することで、そこに私がいる。
そうか、失恋して絶望しているのは私だけではないのかも、という救いになったのか。
それとも、いつかきそうな失恋の日に、心の準備ができたのか。
今となっては、よく覚えていないけれど、いまでもすぐに口にできるほど、よく覚えている。

 

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」も、大好きな俳句。

同じ気持ちになってみたいと思って、山寺に一人旅に行った。

まさに大学生の夏休み、暑い暑い、夏だった。

炎天下の道をあるいて山寺に向かい、階段で上へ向かっている間に、蝉も暑かろうなぁ、、なんておもって、俳句の感傷に浸っている場合ではなかったのが現実。

芭蕉が読んだのは、きっと日陰からだったに違いない・・・。

 

詩というのは、詠む人も、読む人も、世界を広げてくれる。
言葉って、面白い。

 

そして、私が好きな物書きさんは、みなさん食いしん坊で、食べ物の美味しそうな描写がうまい人だな、と、妙な共通点に気が付いた。そして、目の前の食べ物を描写するには、いやおうなしに主観的になる。

そうか、そういうことかもしれない。

俳句や短歌といった限られた文字で、それを表現することの濃厚さに、改めて感服。

 

思想家、吉本さんの話から、食べ物の話に飛んでしまった。。。

どこまでも、食いしん坊です。