「トマス・アクィナス 理性と神秘」 by 山本芳久

トマス・アクィナス 理性と神秘」
山本芳久
岩波新書
2017年12月20日

 

トマス・アクィナスに興味を持ったので、図書館で借りてみた。
新書で後書き入れて274ページ。難解だった。
哲学として難しいというよりは、神学がまったく馴染みのないところなので、それが難しい。
聖書もまともに理解していないで、トマス・アクィナスはやはりよくわからないのか。

それでも、なんとかトマス・アクィナスについて伝えようとしてくれている本。


著者の山本さんは、
「本書は可能な限りのわかりやすさを心がけて執筆されている。だが分かりやすくするためにトマスのテクストに登場する分かりにくい概念や馴染みにくい要素を切り捨てるようなやり方は採用しない。」と最初に断り書きを入れている。


「真に分かるべきこと」「分かりにくいが分かり得ること」「分からないということが分かることに意味があること」があって、それでいい、、、とは言っていないけれど、「分からないということが分かることに意味があること」を除いてしまったわかりやすさは、わかりやすさとは言わないと。

 

読んだ率直な感想は、なんとなく、山本さんが解説するトマス・アクィナスについて、わかることとわからないことがあるというのが分かったので、もうちょっと、腰を据えてゆっくり読み直してみたい、ということ。


わからないことも盛りだくさんだけど、「神を信じるのは理性があるからできることなのだ」というトマスの言いたいことがちょっとわかるような気がした。私は、一神教の教徒ではないけど。

 

冒頭に、いきなり、
愛のあるところ、そこに眼がある Ubi amor, ibi oculus
というトマスの言葉が出てくる。
この言葉の意味するのは、恋は盲目と正反対、愛しているからこそ見えてくる物事の深層というものがある、ということ。
そもそも、「世界は善に満ちている」からトマス・アクィナスに興味を持ったので、いきなり愛から始まることには何の違和感もないけれど、お、きたな、直球!という感じ。

megureca.hatenablog.com


愛について、神について、人について、何かを語ってくれているのではないかと思って、手に取ってみた本。やはり、トマスを語るのに、愛するもの、善(Bonum)なるものを抜きには語れないのだ。


トマスの善の復習。
善は、道徳的善、快楽的善、有用的善の三種類。
道徳的善:困っている人を助ける、と言った善。
快楽的善:このレストランはいいレストランだ、的な善。
有用的善:このボールペンは書きやすい、といった善。

 

トマスの一番有名な著書は「神学大全」。翻訳だけで半世紀以上かかったという。全45巻。トマス・アクィナスは、1225~1274年、49歳で亡くなっているのだが、この45巻の「神学大全」ですら、トマスが残した全著作の1/7に過ぎないという。どれだけ書いたんだ!!

 

愛と善との関係を大前提に置きつつ、本書の「理性と神秘」というタイトルにあるように、トマスの考えた、理性とは何なのか、知性とはどう違うのか、ということが山本さんによって解説されている。

 

知性とは、全体を把握する直感的な理性。神や天使が持っている。
理性とは、推論的、過程的、分析的な理性。人間が持っている。

 

トマス哲学における「理性的態度」とは、
「理性的とは、自らの限界を十分に弁え(わきまえ)ながらも、どこまでもあらゆる実在に対して自らを知的に開いて行こうとする根源的に開かれた態度」

はぁぁ????という感じだけど、ゆっくり読むと少しわかる。


「多様な推論の積み重ねを通して、全体的・総合的な理解へと到達しようと試み続ける自己超越的なあり方を意味している。」


人間は、理性的存在としての人間をめざす。
そして、理性には、二つの理性がある。


理論理性:真実の考察
実践理性:行為という目的へ秩序づける理性

 

そして、人間の働きを理性に即したものにするために必要なのが「」。
人間に必要なのが「徳」。
神は「徳」を必要としない。そのようなものを超越した完全なるものだから。それが「神秘」


”神の「神秘」とは、啓き(ひらき)示されることによって、その「神秘」に触れることのできた人々と神との新たな積極的な関係が築き上げられていくきっかけとなる。「神秘」は開示されることによって「神秘」であることを辞めてしまうのではない。「神秘」を開示された人間は、その神秘が自らの生にとって有うしている意義の自らの「理性」が及ぶ限り探求していくように促されるが、だからといってその「神秘」が「理性」によって理解し尽くされ汲み尽くされてしまうことはない。「神秘」は開示された後もあくまでも「神秘」であり続ける。そうした「神秘」を決定的な仕方で人間に開示してくれた存在こそ、イエス・キリストに他ならないのである。”

 

人は、神にも天使にもなりえないので、完全なる知性にはなりえない。
その代わり、理性的存在として完成させることを目指すのであり、そのためには、アリストテレスのいう枢要徳(すいようとく)つまり、賢慮・正義・勇気・節制が必要となる。
トマスは、「賢慮とは、為すべき善を的確に判断し、その判断を実践に移していく力」とし、知的徳とする。これは、倫理的徳である「正義・勇気・節制」という不可欠な徳を伴っていることが前提となる。としている。

 

理性的であるために、徳が必要であり、それを追求し続けることは神を信じることにつながるという。

 

盲目に神を信じるのではなく、理性があるから神を信じることができる。

ということ?

 

少し、キリスト教の知人が目指していることに触れられたような気がした。

 

アリストテレスの時代から不変の「徳」。

もう少しじっくり勉強してみようと思う。

 

かなり、満腹感のある一冊だった。

そして、もう一度食べてみたくなる。

再読しようと思う。