「徳 アテレー」 と 「幸福」

「徳 アテレー」 と 「幸福」を考える。

 

トマス・アクィナス 理性と神秘」 の続き。

megureca.hatenablog.com

 

本書を読んでいて、 言葉にすると「幸福」というのはそういうことかもしれないと思ったので覚書。


「徳」という概念は、古代ギリシアの「アレテー」という語に由来するものである。
「アレテー」という語は「徳」と訳されることもあれば「卓越性」とか「力量」と訳されることもある。馬のアレテーなら速く走ることができる力量とか、ナイフのアレテーならよく消えるという卓越性とか。
トマスが言うのは、人間であれば一人一人が「徳 アレテー」という「力量」を身につけることによって、人間としてより充実した幸福な生活を送ることができるようになる、ということ。


徳と幸福の関係が、このように表される。

 

トマスの「徳論」はその基本線において、アリストテレスが「ニコマコス倫理学」で展開したところを受け継いでいる。


アリストテレスが重視したのは、「賢慮」「正義」「勇気」「節制」という4つの「枢要徳(すいようとく)」

 

「賢慮」とは、今ここの具体的な状況や事柄の真相を適切に認識した上で、なすべき善を的確に判断しその判断を実践に移していく力である。そうした適切な判断力や実行力は、ある種の頭の良さであることには間違いないが、単なる頭の良さではないバランスの良い人柄、すなわち諸々の倫理的徳が伴っていて初めて身につくもの。

 

「正義」とは、この世において共に生きている他者たちの善を的確に配慮する意志の力である。自分自身にとっての善を実現することを意志することは誰にでも容易にできることだ。だが、自分とは異なる他者や自らが属する共同体全体の善をふさわしい仕方で配慮することは、必ずしも誰にでもできることではない。そのために必要とされるのが「正義」という徳なのである。

 

「勇気」とは、困難に立ち向かう力であり、「立ちはだかる何らかの困難ゆえに、理性に即したものから意思が押し戻されることを防ぐ」のが勇気。

 

「節制」とは、自分の欲望をコントロールする力であり、「理性の直しさが要求するのとは異なるものへのと惹きつけられることを防ぐ」のが節制。

 

これらの四つの徳が共同することによってこそ、人間は理性と欲求を兼ね備えた存在として確固とした自己を確立していくことができる、という。

 

アリストテレスにおいて「幸福」は「幸運」とは異なっている。


「幸運」とは単に、たまたま偶然に良い出来事が起こって物事がうまく回りすべてが順調に進んでいくという意味である。


他方「幸福」は、人間が持っている能力が十分に開花することによって人間として充実した活動が行えるようになることによって実現する。


アリストテレスは、理性的存在である人間の有する諸能力の全体が高められ、完成されることによって実現する人間存在全体の充実が「幸福」と呼ばれているものにほかならない、としている。

 

と、私が、「トマス・アクィナス 理性と神秘」から、読み解いたのが上記のようなこと。本の数ページの記載で、まだまだこの先の深いところまでは読み込めていない。いったん、覚書にしないと頭の整理ができないので、徳と幸福の関係について、まとめてみた。

 


アリストテレスと、トマス・アクィナスでは、主張に異なる点もある。「ニコマコス倫理学」の基本の部分は同じ、ということなのだろう。


*アリストテレスの息子ニコマコスがまとめたアリストテレス倫理学に関する著書が、「ニコマコス倫理学

 

自分の持つ能力を、実現する=社会に役立てる、ということが「幸福」につながるっていうことなのかな、と思った。

そう、脱サラしてすぐの時は、自由時間が増えたことがものすごーーーく幸せだったけど、いつまでも無職でプラプラしているのは、お金に困っていなかったとしても、そんなに幸福な気持ちにはならない、ということを発見しつつある、今日この頃。誰かの役になっている、と、独り善がりに錯覚するのは危険だけど、人は、誰かの役に立ちたいと思う生き物なのだと思う。

 

一方で、人間は完成されることはない。アリストテレスは、完成を目指していたのかもしれないけれど、トマスは、完成を目指しているわけではないような気がする。完成により近づくことを目指すのであって、人は完全にはなりえない。それは、神の領域だから。だからこそ、人間は理性をもってそこに近づこうと努力することが必要、と言っている気がする。

 

親鸞の「往相」と「還相」にもつながるような気がする。

 

トマスの倫理は、多分、「神学大全」読破に挑戦しないとわからなないのだろうと思う。どんなに優れた解説本でも、やはり、原本を読むというのは大切だ。
といって、、、まだ、「神学大全」にトライしようという気持ちにまではならない。

 

私は、佐藤優さんの著書も好きなのだが、彼の思想の基本にも、神学があると思う。だから、ちょっと、神学にもう少し触れてみたら、もっと理解ができるのかな?と思ったりもする。哲学より神学の方が、先なのかな?とか。

 

「幸福」って、その人にとって「幸福」であれば、それでいい。

でも、そこに「徳 アテレー」があってこそ、「幸福」と言えるのかもしれない。

 

いっときの楽しさは、「幸福」とは言わない。

飲んでバカ騒ぎして、楽しい時間を過ごしたとしても、そこには「節制」という徳がないからかもしれない。

 

まぁ、それでも、そういう日があってもいいんじゃないか、と思う。

そんな日があって、節制する日もあって、

からしみじみ、「幸福だな」と感じるくらいでいい気がする。

「幸福」はそれを目指すものではなく、「徳」を忘れずに、理性的に生きていると、そのうち、、、死ぬときくらいに、そっと思うものなのかもしれない。

 

ま、生きるとか、死ぬとか、意識せずに、

平和に生きていられるということが、どれだけ「幸運」なことなのか。

「幸運」のなかで、「幸福」を見出すのは、それもまた理性のおかげなのかもしれない。

 

 とまぁ、たまには、「幸福」について考える日があってもいい。

ちょっと、一息つきたい、日曜の朝。