「すべてを引き受ける」という思想  by 吉本隆明 茂木健一郎 

「すべてを引き受ける」という思想
茂木健一郎 吉本隆明
光文社
2012年6月20日 初版第一刷発行


茂木さんが、吉本さんの「家族のゆくえ」の書評を新聞に書いたことをきっかけに執り行われた二人の対談。2006年7月~10月にかけての対談。そして、吉本さんが他界された後、それが形となったのが本書。とても貴重な対談の記録である。

 

久しぶりに、星4つ、つけたくなる本だった。

(Megurecaでは、星5つが満点)

 

この二人にこのような接点があったことが、うらやましいというか、うれしいというか。

 

吉本さんの語りがいい。時々、ものすごくストレートに「○○なんていうのは、全然ダメだ。」とおっしゃったり、「そうか、そういう考えもあるね。勉強してみます。」とおっしゃったり。

 

本書の中で印象的だったのは、吉本さんがホスピスを否定するところ。ちょっと端折りつつ、引用すると、吉本さんは次のように言われている。

 

「最近はよく『ホスピス』ということがいわれているようですが、ぼくは、あんなのは良くないと思っています。何がよくないかといえば、だいたい、「死」を前提とした介護とか医療は全然ダメだと思うからです。」

ホスピスをやるのは、割合、進歩的な人が多いわけですが、そういう人はみな、自分では『いいことをしている』と思っています。義務的に病院に勤めているお医者さんより、自分たちはいいことをしているのだと考えています。それは、僕に言わせれば二重に悪い。」

そして、同様に、ボランティアをしてます、と公言するような態度もよくない、と。

 

なるほどなぁ、と思った。

深いなぁ、と思った。

確かに、ボランティアをしていますっていうとき、自分はいいことしてます、って言っているようなものかもしれない。そういうみっともないこと、私もすることがある。

ちょっと、いい自分を見せたい、って感じ。

いやぁ、恥ずかしい。

 

ホスピスは、私は医者ではないから、関与するとすれば利用者としてだろうから、私は、あってもいいと思っている。

不治の病になって、苦しまずに、死ねるなら、ホスピスがいい。

でも、実は、病でなくても人は必ず死ぬんだよね。

死にたくないともがいて死ぬのか、もう楽して死にたいと思って死ぬのか、、、、。

みっともなく、もがいて死ぬほうが人間らしいともいえる。

でも、苦しいのはヤダな。

私は、そういう時は、最後の時は、苦しみから逃げてもいいと思っている。

 

 

ホスピスを否定する吉本さんに対し、茂木さんは、それは、人間観の違いなんでしょうね、と受け止めつつ、デズモンド・モリスの「人間動物園」からの一文を紹介している。

 

「人間というのは動物園にいる家畜化された動物に近い。自分で自分自身を家畜化している。文明の進捗によって暮らしはどんどん便利になって、苦痛を感じないようになってきたし、抵抗なしにスムーズに生活できる方向にどんどん進んでいる。しかしそれは非常にパラドクシカルなことで、それによって本来は非常に強力な存在だった人間が最も無力な存在になってきている

これを引用したうえで、茂木さんは、「社会全体がホスピス化している」という分析をしている。

エレベーターやバリアフリー、それらを利用・活用することよって人間の運動能力は衰えていく。

「苦痛を取り払う方向に文明を進化させる」というのが全体の流れで、そこに反論するのは難しいことなんだろうと、茂木さんはいう。

 

確かに。

 

私は、駅のエスカレーターは、あえて、使わないようにしている。階段を使った方が運動になると思っているから。それを、苦痛と思ってしまうと、人間は弱まる方向へ行ってしまうのかもしれない。

老人ホームでも、あえて、「バリア有」にすることで、高齢者の運動能力を衰えさせない、とも言われている。

 

誰かのために良かれと思ってすることが、実は、余計なお世話になっている、、、って、世の中たくさんあるのかもしれない。

ホスピスも、延命治療も、良かれと思うからやるのだけど、さて、誰にとっての良いことなのか? 答えは、難しい。一つでもないのだろうと思う。

 

もう一つ、もっと印象的だったのが、親鸞の話。

人の思考と脳科学との関係性の話で、科学主義の確率論から、偶然と必然の話になり、吉本さんが「親鸞」の話に展開される。

 

親鸞がとらえる、「往きの目」(往相 おうそう)と「還りの目」(還相 げんそう)とは。


往相とは、何かを追求していってその世界の最高水準にまで到達すること。知識であれば、知識を追求していって世界思想の最高水準まで到達するのが「往相」
しかし、真の意味では知識を全体性として獲得するというのは、知識を獲得すると同時に反=知識、非=知識、不=知識を包括することでなくてはいけない。親鸞は、それを「還相」と呼んでいる。

 

吉本さんが、「一杯のかけそば」の話を例として説明してくれている。
往きかけに「一杯のかけそば」を分け合う親子をみて同情したり感動したりしても、それは、万人に対する感動や倫理を象徴しているわけではないから、あまり意味はない。往きかけの何かは意味がない。往きかけに、飢えている人をみても助けなかったとしても、そんなことはたいした問題ではない。


救済の問題というのは、往きかけのなにかではなく、ある地点まで行ってそこから還ってきた、その時にどうすればいいのかと考えるということ。還り道に、助けが必要な人に出合ったときに、その人を助けるという事は、万人を助けることと同じなる、というのが親鸞のいう「還り」ということ。

なるほど。ちょっとわかる気がする。最高水準までいくことだけではなく、そのあとが大事という感じか?

 

最近、「死」とか「老い」というテーマの本を読むことがあり、どこからが人生の折り返しなのかな、と思うことがある。

折り返しなんてないのかもしれないし、あそこらへんで折り返そうと思っていたのに、ぱったり死んじゃうかもしれないし、往きのつもりが、既に還りを歩いているのかもしれないし。

 

でも、往きにすることはそんなに意味がない。還りにすることに意味がある、という親鸞の言葉に、ちょっと救いを感じる。

 

まだまだ、人生の往きをいっているつもりでいるけど、往きかけに気になったまま避けてきたこと、このあと、行動してもいいのかもしれない。

 

人はいくつになっても変われる。

人はいくつになっても成長できる。

往きと還りの長さは違っていい。

人生の折り返しは、まだまだ先にしておこう。