「家族のゆくえ」 by 吉本隆明

「家族のゆくえ」 
吉本隆明

2006年3月1日 初版一刷発行
光文社

 

先日読んだ「『すべてを引き受ける』という思想」という本の中で、茂木さんが吉本さんと対話をすることになったきっかけが、この「家族のゆくえ」の書評を茂木さんが新聞に書いたからだった、という話をされていた。

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吉本さんの、「文章を書くのは自己慰安的な意味でやっている」という発言も興味深くて、吉本さんの本を読んでみたくなって借りてみた。


最初に、太宰治の「家族の幸福は諸悪のもと」という家族論を引用し、若い時の吉本さんは違和感を持ったものの、今八十歳近くになるとわかるような気がする、と言っている。不幸はどこからでもやってくるから、と。


八十歳近くになり、自分自身に老いを認めるようになってきた吉本さんが、家族というものを見つめた著書。家族というより人の一生と言ったらいいだろうか。成長段階における、家族のかかわり。

 

吉本さん自身が考える、人間の発達と移行期という全体像が最初に示されている。いわゆる生物学的な成長の段階とは別に、吉本さんは各成長段階の間に移行期があるということを明確に示している。成人が二十歳というのも人が引いた一本の線でしかないが、その成人とする歳は、人が勝手にその時期を変えることもできてしまう。
移行期は人それぞれ幅があるし、人の成長をただの段階、あるいは年齢で分断することはできないだろう。


生物学的成長を大きく5つの段階に分けて、それぞれ吉本さんが考えるその時に大事なことが記されている。

乳幼児期 (胎内7~8ヵ月 ~ 1歳半)
少年少女期 (学童期)  ( ~ 10-14歳)
前思春期から青年期 ( ~ 20-25歳)
成人期  ( ~ 60-65歳)
老年期  ( ~ 76-86歳)

あら?86歳以上は?!?! と、思うけど、ま、、、そこはさておき。


乳幼児期で最も重要なことは、お母さんあるいはそれに代わる人から十分な愛情を受けて育つということ。

吉本さんは幼児の早期教育なんて何の意味もないと言う。人より少し早く成熟して何の意味があるのか、と。早期教育をして早く成熟した人が、成人期・老年期においても人より勝っていたなどという話は聞いたことがない、と。

わかる気がする。

 

少年少女期、いわゆる学童の期間。
吉本さんはこの期間の一番重要なことはしっかりと遊ぶことだと言う。なのに、そもそも学童期という名前であること自体がおかしい、と。

この時期、遊び以外は全部余計だと。


吉本さん自身が、娘たちの幼稚園の参観にいった時の話が出てくる。椅子取りゲームに親も一緒に参加させられて、ちょっと恥ずかしかったという思い出。
椅子取りゲーム、懐かしい。
今の子もやるんだろうか??

今の学校なら、
へたしたら、椅子をとれない子がいるとかわいそうだから、とか言いそう。

運動会の徒競走に順位をつけないとか、バカげている。。。

 

親も一緒に、徹底的に遊べばよい時期が、学童期。

 

吉本さんは、小さい娘たちを公園に連れて行って、一緒に遊んでやっていたつもりだったけど、大人になってから、「お父さんは公園に、連れて行ってはくれたけど、一人で本読んでるだけだったじゃない」と言われて、ショックを受けたそうだ。反省している、と。

 

また、この時期は、人格形成の最も重要な時期であり、それは全て親が責任である、と吉本さんは言う。


少年少女の事件も、親の責任であると。少年少女が事件を起こしたら、親も一緒に少年院で暮らすぐらいのことをすればいいと言う。


乳幼児期に十分に愛情を注げなかったのだとすれば、そこでやり直せばいいと言う。

 

次の段階がいわゆる思春期青春期。 ここでは性を抜きにしては語れない。そして夏目漱石の「こころ」や、折口信夫の同性愛の話が出てくる。また、ここでも親と子供の関係ということで、戸塚ヨットスクールの話が出てくる。


吉本さんは親が教育することを放棄して、非行に走った子供を戸塚ヨットスクールに預けておきながら、今度は自分の子供が戸塚ヨットスクールで殺されたとして戸塚ヨットスクール訴えるのは間違っている、と言う。

 

戸塚ヨットスクール事件(1983年): もともとは、戸塚宏が主宰する、ヨットの技術を教える教室だった。その後非行や情緒障害等に戸塚宏の指導は効果があるとマスコミで報じられたことから、親元からスクールに預けられる生徒が増加し、非行や情緒障害の更生へのための指導と称して、体罰を含めた指導(とは言い難いけど)があり、死亡事件にまで至った。

 

自分で育児することを放棄しておきながら、預けた先を訴えるなんて間違っていると言う。
吉本さんの、家族に対する覚悟が響いてくるような言葉。読みながら、一瞬背筋がのびる感じ。


また性教育などしなくていいと言う。親が愛情を持って育てれば、間違った性の発散の仕方などには走らないと。

 

成人期。いわゆる20歳以降、そして60歳になるまでが成人期。
ここが一番長い期間と言える。
この頃、「人間力」が育っていく。20歳から60歳までの間は、社会で色々なことを経験していく中、想像力を持つこと、相手のことを思うこと、そういったことを本当の意味で自分の力としていくのがこの時期なのかもしれない。


構想力、理想力、人間力
そして自分には至らない点が沢山あるということに気づき、その「負」の部分を自己慰安的な意味で自意識化をするために、何かを表現しようとする。内省する。

先にも述べたように、「『すべてを引き受ける』という思想」の中でも、吉本さん自身が、文章を書くのは自己慰安なのだとおっしゃっていた。

 

また、成人期から老年期にかけては体そのものの運動性の鈍化が否めない。
頭で考えて意識したことから、それを実行に移すまでの間に、遅れが生じる。
つまり「意識する」ことと、「実行する」こととの間に、距離が広がってくる。

いわゆる、中年と言われる年齢になると、運動能力の衰えを感じる人は多いのではないか。子供の学校の運動会で、張り切って走ったお父さんが肉離れを起こすとか、、、。

 

そして、老年期へ。

老年期の変化といえば、衰えるものは、身体の運動性や体の回復力。
一方で、拡張していくのは、思い込み、妄想、あるいは自分に慣れている能力は歳をとっても拡張していくと言う。


ボーヴォワールの「老い」を引用されていた。そして、高齢者は歳をとったからといって人間性を否定されるものではなく、年寄りをアホ扱いするな!と。
高齢者施設で、みんなで歌を歌いながら踊らせるなんて高齢者を阿呆扱いしているに違いない。人は、阿呆になるために長生きしているのではない、と。

他人はその人の死を左右することはできない、と。


何より心に響いたのは、成人するまではとにかく全て親の責任であると言い切るところ。
子供が罪を犯せば、親も罪を償う。親からの愛情が足りなくて他人の痛みがわからない人になってしまったのだとすれば、それを正せるのは親しかいないと。

 

2006年の本。


1997年から2005年の間に起きた、少年少女の犯罪が列挙されているページがある。
同級生を殺してしまったり、母親を殺した事件。
年齢にふさわしからざる異常なふるまい、そこに親の問題がないわけがない、というのが吉本さんの意見。

ここまで言い切れるところが吉本さんのすごいところだと思う。
そして反対意見があればまたそれを素直に受け止め、時には前言撤回を躊躇しないところも吉本さんのいいところ。


やっぱり愛が地球を救う。

 

事情によって、親が十分な愛情を注げないこともあるかもしれないけれど、やはり、どのような形であれ、子供たちは愛で守ってやるべき存在だと思う。

また、愛を注げる子供がいるという事が、どれだけ幸せなことか。 

 

愛は、惜しみなく。

愛は、愛を呼ぶ。

愛は、時代を超える。

 

愛するものがあることに感謝しよう。

ありがとう。