両親が80歳を過ぎて、高齢化社会がより身近になった。
だれもが、老いる。
私も、老いる。
最近、手にする本が、老いや高齢化、生きる、死ぬといったテーマが多くなりがちだったのは、自分自身も肉体年齢的にはピークを過ぎていると感じるからかもしれない。
人生、やりたいことを積み上げると、人生150年と思っているのだが、、、、。
「『老い』 それは文明の言語道断な事実、スキャンダルである」、と書いたのは作家のシモン・ド・ボーヴォワール。Simon de Beauvoir。1908~1986。実存主義者、サルトルの生涯の恋人。
ボーヴォワールがその代表作「第二の性」で「人は女にうまれるのではない、女になるのだ」と書いたのが、1949年。41歳の時。
その約20年後、1970年の作が、「老い」。ボーヴォワール、62歳の時。
1970年、私は、既にこの世に誕生していたけれど、もちろん、老いに興味があるわけがない。ボーヴォワールが亡くなった1986年までには、日本は女性の社会経済活動への進出が進み、「第二の性」は話題の一冊だった。「老い」という作品があったということは知らなかった。
1970年、まだ、高齢化にまつわる社会保障制度が脆弱だった時代、フランスの高齢化率は世界トップレベルだった。と言っても今の日本の25%に比べれば、12%という。。
その時代に、「老い」をテーマに著書を記したというのは、世の中を本当によく見ていたのだな、と思う。
最近、NHKの「100分 de 名著」という番組で取り上げられたらしく、そのNHKテキストを借りたので、さっと読んでみた。
「老い」は、相当、悲惨な暗い内容で、老いを明るく生きよう!というような前向きコメントは何もないらしい。
1970年ころだと、60歳、日本で言えば還暦を過ぎて引退、、、という時代。あとは静かに余生を、、、社会に出てこなくていいよ、、、と。
ボーヴォワールは、そのことに怒っている。
老いた人間を厄介者にして廃物扱いする。それが許せない。老人の人間性が毀損されていることへの怒り。具体的に、著名人の人生終盤におけるみじめな生活をあらわにするが、それがどうした!というのが、彼女の言わんとするところ。
「老いは、個人が努力で克服するものではなく、まさに社会の問題。文明の問題。」と彼女は言う。
それは、「障害」についても言われることと、近いような気がした。
「障害者」は、障害をおってなるのではなく、社会が「障害者」を作る。
「障害」も「老い」も、その人の一つの特徴であって、それを「障害者」とか「老人」という言葉でひとくくりにするのは、世間であり、社会だ。そういう社会をつくっているのが文明だ。
「老いは、個人が努力で克服するものではなく、まさに社会の問題。文明の問題。」
なるほど、と思う。
そして、彼女は、
「ごまかすのはやめよう。我々はいかなるものになるかを知らないならば、我々は自分が何者であるかを知らないことだ。」
と言う。
だれでも、生きていれば年を取る。そして、どこかから老いが始まる。そして、ある日、それに自覚する。自覚は人によってタイミングは様々なようだけれど、吉本隆明さんに言わせれば、思考と行動の間に距離ができていることを自覚するとき、老いを自覚する、という。
著書の中で、ナビゲーターである上野千鶴子さんが、安楽死の話題を出すのだが、「老い」にそのことがふれられているわけではない。ただ、死について自己決定できるのか、という事を問いている。
人が生まれるときに、そこには自己決定はない。
誰を親にして生まれれてくるか、自己決定は一切ない。
人の死に、自己決定はありえるのか?
死についての完全に自由な意思決定はあるのか?
上野さんは、安楽死に反対している人。
「実存主義の言う自由の中に、死の自己決定はありますか?」と聞いてみれば、きっと「ノン」というのだろう、と言っている。
ボーヴォワールも、サルトルも、死の自己決定については言及しなかったし、実践もしなかった。
老いて、昔できていたことが出来なくなって、人の世話になろうと、みっともなくなろうと、それでも、それが人と言うものではないのか。
と、そんなことを言われているような気がした。
少し、吉本隆明さんの言葉ともかぶる。
私は、もしも年を取って認知症になって、自己決定できなくなってまで生きていたくないなぁ、と思っているのだけれど、もっと年をとると、まぁそれでもいいか?と思う時が来るのか?
わからない。
人生、わからない。
そうなる前に、ぽっくり死んじゃうかもしれないし、人生についてのわからないことを考えるのはやめよう。
人は誰でも歳を取る。
歳をとれば、色々な不都合も起きてくる。
でも、それはそれで受け止めればいいのかもしれない。
そんな勇気はあるか?
まだ、わからない。
とりあえず、今は、この体を、大切に使っていこう・・・。
そして、大切な人にも、体を大切にしてほしいな、と思う。
先月、父の介護度が上がった。
昔できていたことが出来なくなっても、父は父である。
昔できていたことが出来なくなっても、新しく出来るようになることもある。
やはり、父は父である。
老いは誰にでもやってくるものだと、つくづく思う。
そして、老いても、長生きしてほしいと思う。