『善の研究』こわばる身体がほどけるとき

今を読む!名著 
西田幾多郎 『善の研究』を読み直す  こわばる身体がほどけるとき
板橋勇仁 著
2021年7月20日 第1版 第1刷発行
 現代書館


図書館の新着本の店にあったので手に取ってみた。
西田幾多郎の「善の研究」は、何度も読もうと思っているのだが、図書館の本で挫折し、 Kindle 青空文庫で持ってみたものの、難解すぎて読めていない。


本は、解説本ではなく原本を読め!と言われるが、原本で挫折してるので、ここは解説書らしき、この本を読んでみよう、と思った。


だがしかし、この本も結構難解だった。そして、確かに、「善の研究」を読み直すとはあるのだけれども、西田幾多郎の哲学そのもの、前期後期を含めた全体を考察していたり、「こわばる身体がほどけるとき」という副題にあるように、身体と心の関係を野口晴哉さんの話を引用して説明していたりする。


読んで心に残ったのは、西田幾多郎の「純粋経験」という哲学そのものよりも、身体と心の関係ということだった。
 
善の研究」は、明治以降の日本哲学の金字塔、鈴木大拙が「禅」の巨匠なら、西田幾多郎は、「善」の巨匠、、、といったところか。
 
西田哲学は、「我々の自己が生きるとは、他の存在する物と関わりあいながら生きることである。」
自己、所有物、身体、統御、執着。


他の存在と関わりあいながら生きるときに感じる生きづらさは、身体が他の存在に働きかけるときのこわばりであり、自分自身で生み出すこわばり。

 

自分で、コントロールしようと思っても、コントールしきれない身体に感じる、生きずらさ。

 

野口晴哉さんは、整体法の方らしい。

身体を緩めることの大切さをおっしゃっている。

風邪をひいたり、ちょっと体調が悪くなるのも、体が緩みたがっているという事らしい。

体調を悪くして、下痢をするのは、身体がからだの中から悪いものをさっさと出してしまいたいから。

お腹痛いのは苦しいけど、出すものは出すと、、、すっきりする。

そして、そのあと、身体が緩む。。。

 

そのように、人の身体は、緊張と緩和を繰り返し、平衡運動をしているようなものだと。

 

それが、社会のルール、自己への過信などで、緊張状態ばかりが続くと、自分で自分の身体をこわばらせてしまう。

 

自分の身体を解放し、緩和させられるのは、自分しかいない、ということ。

そして、自分は、過去からの自分の積み重ね。

色々なものを経験し、受け入れたり、拒絶したり、

苦悩と悲哀を経験しながらも、喜びと幸せも経験したり、そういう過去の積み重ねが今の自分。

純粋経験」という言葉の意味は、まだよくわからないけれど、経験が自分をつくるというのはわかる。

 

読書のような疑似体験も含めて、経験だろう。

読書にも、ドキドキして緊張するものと、フワフワして弛緩するものがある。

緊張と緩和の繰り返し。

 

西田哲学の本髄は、まだまだ分からないけれど、身体をゆるめる、って大切だよな、と思った。

 

緩める前の緊張も大切。

伸びっぱなしも、緩みっぱなしも、平衡を壊してしまう。

身体をゆるめる、って大切。

身体をゆるめると、心も緩む。

 

ほどほどに、ゆるく。

ほどほどに、きりっと。

 

昨日は、緩んだので、今日はすこししゃっきり頑張ろうと思う。