伊勢の海千尋の底の一つ石
今朝、教えていただいた、禅の一言。
伊勢の海千尋の底の一つ石 (いせのうみ ちひろのそこの ひとつのいし)
臨済禅の公案の一つ。
伊勢の海、というのは、伊勢神宮のある伊勢の海のこと。
日本が舞台の公案。
「伊勢の海 千尋の底の一つ石 袖をぬらさで 取るよしもがな」
意味
伊勢の海の深いところにある石、石碑みたいなものを、袖をぬらさないでとる方法はあるか?
禅の師匠が弟子に問いかけた。
師匠の答えは、「境界(きょうがい)で見よ」ということだった。
頭で考えないで、心で解いてみなさい、ということ。
袖が濡れることを気にしていては、石はとってこれない、あれこれ考えないで、ザブンと水に入って取ってくればいい。
石がとりたいのであれば、濡れることなんて気にしないで、飛び込めばいい。。
と。
そういうこと。
あんまり解説しても仕方がない、と言いつつ、
もう一つ、同じようなこととして紹介されたのが、
「舌を使わず話してみよ」
これは、幕末の志士である山岡鉄舟(谷中に全生庵を作った人)が弟子の一人であった噺家、三遊亭円朝に言った言葉。
「舌を使わずに噺をして見よ」
解説
「今の芸人は、人が喝采さえすれば、すぐにうぬぼれて名人気取りになるが、昔の人は自分の芸を始終自分の本心に問い掛けて修行したものだ。
しかし、いくら修行しても噺家であれば、その舌をなくさない限り本心は満足しない。その舌や身をなくす法は、禅をおいてほかにはない。」として、禅で指導し、何度も桃太郎の話をさせた。
そしてある日、「今日の桃太郎は生きているぞ」と許し、円朝に「無舌居士(むぜつこじ)」の号を付与した。
ちょっとわかりにくかったのだが、
どちらの言葉も、「心の底から自分が欲するものに素直になれ」、という事なのかもしれない。
よけいなことを気にするな。
人がどう評価するかを気にするな。
そういう、こと?
三木清さんの「人生論ノート」に、虚栄心の話が出てきたが、虚栄心というのは”消費”と結びついているという。ここでいう消費というのは、貨幣で変換される価値。
噺家としての自分の価値。消費者にとっての自分の価値。
消費者からの評価によってかわる価値。
そんなものを気にしない、というのが虚栄心を捨てるという事であり、舌を使わずに噺をする、ということなのかもしれない。
ちょっと、難しいな。
自分の欲するものに素直になる。
でも、独り善がりでないこと。
私にとっての、海の底の石は、何だろうか?
袖が濡れるのも気にせずに、取りに行きたいものがあるだろうか?
それくらい、夢中になっているもの、頑張りたいもの、今の私にあるだろうか?
そのことの方が、今の私には問題なような気がする。
石が何だかわからないままに、色々インプットばかりに夢中になっている今日この頃。
あれもやりたい、これもやりたい。
やりたいことは満載だ。
人生100年時代、半分の節目に、ちょっとゆらゆらと浮いてみるのも悪くない。
いつも全力で石を取りに潜っていたら、疲れちゃうよ。
今は、体力をつける時だとおもって、インプットを楽しもう。
そういうときがあってもいい。
そいうことにしよう。
そのかわり、全力でインプットしよう。
波に、浮いていられるくらいの脱力と全力で。