歴史は、勝者が作る。。。
はたして、本当の歴史は?
歴史には、解釈がある。
だから、ただ、教科書を読むだけではなく、色々な解釈を学ぶ必要があるんだな、と思う今日この頃。
学生時代、歴史にはあまり興味がなかった。
通っていた県立高校は、進学校だけれどまんべんなく授業があった。高校三年生、理系進学コースでも日本史の授業があったし、漢文の授業があった。
物理や数学を勉強しているほうが楽しいから、歴史にはあまり興味がなかった。
共通一次試験に必要な範囲しか、勉強しなかった。
その程度の知識だし、その程度の記憶。
ところがだ、歳をとるにつれて、歴史を学ぶことが楽しくなり、その大切さを認識するようになる。あぁ、もっと、歴史を勉強しておけばよかったなあ。と。
なぜなら、歴史は繰り返していることを、人生のなかで経験するからだ。と思う。
と、だが、しかし!だ。
今の教科書は、鎌倉幕府設立も、「イイクニツクロウ」1192年設立、ではないらしいではないか。
江戸時代の「士農工商」もないらしい。
私が勉強して、テストで間違いでバッテンをくらったものも、実は、テストの答えが間違っていましたって、、、そんな勝手な、と思う。
学校で習ったとおりに答えることを求められる教科が好きではなかったが、心のどこかで、「そんなの誰か確認したの?」と思っていたからかもしれない。
歴史を学ぶというのは、教科書を信じるという事ではない。
1192年、それがどうした?
そう、歴史を学ぶといっても、細部の年号とか、誰が、とかいうことでなく、どうしてそうなったのか、そこにあるストーリーが大事なのだ。
でも、ストーリーにするという事は、その時代の登場人物の個性というのか、特徴、人間としてどういう人であったのか、が説明されないとわかりにくいのだ。
でもって、その人はすでに故人なわけで、直接本人に会ったことのない人が、過去の文献などからその人のキャラを紐解こうとする。文献にのこっていたり、人々に言い伝えられていることというのは、その故人の特徴だったことだったりするかもしれないけれど、その人の全人生ではない。取るに足らないと思われるような日常の過ごし方などが文献などに残るはずもない。
と、そうすると、それぞれの故人への理解は、極端なものに傾いてしまうのではないだろうか??
と、そんなことを最近、「明治維新」をテーマにした本を数冊よんで、つくづく思った。
始まりは、
「ドーダの近代史」鹿島茂。
東海林さだおさんの「ドーダ学」にならって、近代史をドーダ学で読みといた一冊。
「ドーダ、オレ、すごいだろう」という自己愛に源を発する表現行動で、尊王攘夷へ走った水戸学の藤田東湖、それにならった西郷隆盛、などなど。
そうか、そういう見方があるのか、と面白く読んだ。
西郷どん、といえば、もっさいけど、人の良い人、、、という印象があったけど、なるほど、そうとも言えるかもね、と思った。
そして、続けて読んだのが、
「明治維新という過ち」 毎日ワンズ 原田伊織
「大西郷という虚像」 悟空出版 原田伊織
いずれも、「明治維新」に対する解釈は、私が中学・高校で学んできた歴史解釈とはことなっていた。
教科書は、「明治維新」があって日本の近代化が進んだ、というプラスの側面として書かれていた。
でも、これらの本は、「明治維新」という名称そのものも、「幕末~明治」の出来事を正当化するためにつけられたもので、実際には、薩摩・長州の世の中になっただけで、勝てば官軍、だっただけだと。
「赤報隊」なんて、ただのテロ集団、といえばその通りだ。その集団の世の中になったのが明治維新。テロ集団が、勝てば官軍になってしまった。
そして、その「官軍」が陸軍、海軍の中心となり、太平洋戦争へ陥っていく、、、。
そうか、そうかもしれない、と思わず、納得する。
まぁ、これも、一つの解釈であり、正解であるかはわからない。
教科書以外で知る幕末というと、司馬遼太郎さんの数々の名作で、近代日本が形作られる成長の時代、と理解しがち。でも、司馬遼太郎さんは自分の理想で書いたのであって、坂本龍馬と坂本竜馬は違う。坂本竜馬はフィクションだ。
歴史だけではない。
何かを理解しようとすると、事実を知るという事と、その解釈を知るという事は、別物であって、自分で解釈できるほどの知恵がないから、人の解釈を聞いてみる。新聞、雑誌、テレビで人の意見を聞くのも、解釈を聞いているという事だ。
事実と解釈。
自分で解釈できないことは、複数の解釈をきいてみるというのが大事だな、とつくづく思う、今日この頃。
池上彰さんや、佐藤優さん、新聞は複数読むべき、とよくおっしゃる。
頭ではそうだろうと思っていたけれど、いくつも新聞を購読するのはお金もかかるし、読むのに時間もかかる。
でも、たしかに、大事なんだな、と思う。
ネットでも、大きな記事は無料で読むことが出来る。
無料で読める範囲で、同じことを扱った記事を読み比べてみると、面白いかもしれない。
眞子さんのご結婚。
岸田内閣。
新聞によって、どう書かれているのか、ちょっと読み比べてみようかな、なんて思った。
歴史は、勝者によって書かれる。
教科書だって、所詮、誰かの視点で書かれたもの。
それをわかったうえで、歴史をみなおしてみると、なお、面白いかもしれない。
起きていることは正しい。
それを、どう解釈するかは、自分次第。
歴史も、政治も、人生も。
人間は、どう解釈するかの答えをもとめて思考する動物なのかもしれない。
そうでなければ、哲学なんてものは生まれない。
そうだ。
だから、
自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。
自分の人生の解釈は、自分で決める。