水を掬すれば月手に在り
(みずをきくすればつきはてにあり)
意味:
両手で水を掬いあげると、月が掌の中にくっきりと宿る。
自と他、主観と客観、物と心、が一体となる境地。
禅において、月は悟り、仏心のたとえであるから、自己と仏心が一枚となった三昧の境地。
実生活において例えるならば、仕事の時は仕事、遊びの時なら遊び、その時、そのものに徹するということ。
また、水を掬えばそこに月が現れるというのは、そこに仏心が現れるという事。
悟りの月は、どこにでも輝く。
10月になって、久しぶりに、リアルな坐禅会に参加した。
コロナによる緊急事態宣言で、しばらく、お預けとなっていた坐禅会。
住職のお話も、久しぶりに聞くことが出来た。
10月の夕刻だというのに、ちょっと蒸し暑いような感じ。
通常の半分の人数に減らしての開催。
隣の人との距離が、遠い。
でもいつも通り、20分の坐禅を2回。
久しぶりに、お堂の中の音、外の音、一緒に坐禅を組んでいる仲間の気配、住職の気配、、、感じながらの坐禅だった。
気配を感じているというのは、、雑念ではあるのだけど。。。
外は、虫の声。
車の音。
時にはサイレンの音。
風の気配。
中は、お堂の中の空気の気配。
住職が踏みしめる畳の音。
自分自身の呼吸の音。
都会の中なので、色々な音がまじりあう。
でも、久しぶりに心地よい空間での坐禅だった。
坐禅が始まる前、久しぶりにお会いした住職に、
「今はどうしているの?」と聞かれ、
「まだ、ぷー太郎です。」と答えるわたし。
「それもいいね。」と言ってくださる住職。
実際には、ちょこちょこ仕事らしきものはしているのだけれど、どこに所属しているわけでもない。
何をしているかと聞かれると、
「○○をしています。」と、答えることができないというのは、なんて不安定なんだ、と思う今日この頃。
やりたいことはたくさんあるけれど、仕事としてやりたいのかと問われると、何か違う気がする。改めて、自分はなにがしたかったんだっけ?と思う。
そして、今回の禅の言葉。
水を掬すれば月手に在り
これは、秋の句で、春の句もあるという。
花を弄すれば香衣に満つ
(はなをろうすればかおりえにみつ)
これも、同じように、どこにでも輝くものはあるということ。道端にあるようなお花でも、美しさに見とれて戯れれば、その香りは衣服に移り、いつまでも香る。
いま、そこにあるものに、没頭する。
それが大切。
ということ。
実生活において例えるならば、仕事の時は仕事、遊びの時なら遊び、その時、そのものに徹するということ。
でも、実際には、仕事をしていても遊びのことを考えたり、遊んでいても仕事をかんがえてしまうのが人。
であれば、坐禅の時間が、没頭するための修行なのかもしれない。
没頭できる、夢中になれる、というのは、なんて贅沢なことなのだ、と思う。
フロー状態、という言葉がある。
スポーツ選手が、素晴らしい成績をおさめたときなど、「フロー状態だった」といういう言い方をする。
考えていない、感じている。没頭している。ただ、そこに集中している。
没頭できる時間があるというのは、実は、ストレスフリーの時間があるという事。
最近、そこまで、没頭したことがあっただろうか?
と、そんなことを坐禅を組みながら雑念として考えてしまった。
本当に没頭できること。
とりあえず、仕事とか、趣味とか考えず、好きなことに徹してみよう。
コロナとか、アフガニスタンとか、経済の不安定さとか、、、、
世の中は、不安材料にあふれていいて、良いニュースがないなぁ、と思うけど、
そもそも、報道されることというのは事件、、、。
楽しいニュースは、自分で作ろう。
うれしいニュースは、自分で作ろう。
リアル坐禅会に、半年ぶりに参加できた、という良いニュースを覚書き。
そして、2021年、あと3か月。
まだ、3か月もある。
目標未達がたくさん。
もう一度、計画を練り直そうと思う。
住職には、何を言われても励まされる。
不思議な方だ。
こうして、いただいた言葉をきっかけに、また今日も一歩、動きだせる。
ありがたいことだ。
ありがとうございます。
感謝できることに、感謝。
さて、晴天。
今日も頑張ろう。