「ジニのパズル」 by チェシル(崔実)

「ジニのパズル」
チェシル(崔実)
2016年7月5日 第1刷発行
講談社


「〈危機〉の正体」 (佐藤優 富岡幸一郎) の中で、在日の人たちの現実としての危機が小説という形でしめされているもの、として、紹介されていた。

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日本で現実に起きている、在日朝鮮人在日韓国人の方の話が小説という形で表現されている、ということで、ちょっと辛そうだし、どうしようかと思ったのだけど、図書館で借りてみた。

 

著者の崔実さんは、1985年生まれ東京都在住。

2016年、本作で第59回群像新人文学賞を受賞。

 

以下、ネタバレあり。

 

Amazonの紹介文には、
”「日本には、私のような日本生まれの韓国人が通える学校が、二種類あるんだ」――。1998年、テポドンが発射された翌日、チマ・チョゴリ姿で町を歩いていたジニは、警察を名乗る男たちに取り囲まれ……。二つの言語の間で必死に生き抜いた少女が、たった一人で起こした“革命”の物語。”
と、ある。

 

が、これは、彼女が起こした革命の物語ではない。
だって、朝鮮学校で起こした革命は成功しなかったのだから。。。。
それに、そこだけを読んではいけない本だと思った。
「〈危機〉の正体」で紹介されていたから、そこに気が付いて読むことが出来た気がする。
もっと、暗く、深く、社会にある、辛く、厳しい現実の物語。

そして、そこから、救ってくれる手もある、という物語。

 

この本は、在日朝鮮人学校の現実、チマ・チョゴリをきた生徒が実際に受けたであろう差別、そして、なぜそんなことが起こるかを理解できない少女が行き場を失い、家族からも離れ、遠いオレゴンの土地で自分を取り戻す、そんな物語だ。

読み終わって、本を閉じた瞬間に、涙があふれた。。。。
そういう、本だ。
あってはいけないことなのに、きっと、事実あった出来事だ。


ストーリーは、女子中学生、ジニが日本を離れ、オレゴンでホームステイをしながら学校に通っているところから始まる。そして、そこでも、ジニは退学の危機にある。。。
ホームステイ先のおばさん、ステファニーは、そんなジニを優しく、静かに見守ってくれている。そして、「あなたはどうしてそんなに悲しい目をしているのか。ここに来る前に日本で何があったのかを語ってくれないか」という。

語りだす、ジニ。

そこから、日本朝鮮人学校での回想が始まる。
実際に、話の軸になるのは、テポドン発射事件前後の現実。

ストーリーは、日本での出来事を語り終えたジニの場面に戻り、オレゴンの生活場面に戻る。誰にも言えなかったこと、親にすらいえなかったこと、それをステファニーに話したことで、ジニの心は、何かを取り戻す。

 

「ジニのパズル」のパズルは、無くしかけた自分のかけらを取り戻す、という事なのかもしれない。

最後は、一応、ハッピーエンド、かな。

 

”ステファニーは両手で包み込むように私を抱きしめてくれた。その腕の中に身を任せるようにもたれ掛かると、どこまでも続く終わりの見えなかった長旅を終え、やっと家にたどり着いたようなそんな気分になった。”

 

よかったね、ジニ。
涙が出ちゃったよ。

 


1998年、テポドン発射って、、、、。
崔実さんは、1985年生まれというから、1998年当時、13歳。中学生。
実際にその時に朝鮮学校へ通っていたのかもしれないし、本人、あるいは友人が命の危機を感じたのかもしれない。


私は、1998年には既に社会人だったので、たしかにテポドンのニュースは、外交問題の一つとして記憶にある。その時、在日の人たちに何が起きていたのか、という視点では見ていなかったと思う。

ただ、中学、高校と横浜市の学校だったので、「チョーセン学校」という単語は、当時よく耳にした。チマ・チョゴリを着た女子生徒を街で見かけることもあった。そういえば、2021年の今は、まったく、目にすることがない。もう、何年も前から、見かけなくなった。
もしかすると、テポドン発射以降、街中でチマ・チョゴリをみることが無くなったのかもしれない。

 

関東で育った私には、「部落差別」という言葉は、あまり身近ではなかった。恥ずかしながら、私が、「部落差別」とういことを教えられたのは社会人になってから、会社の新人研修が初めてだったと思う。
その代わりと言っては何だが、「朝鮮人」という言葉は、なにかよくわからない、自分とは違う人、という偏見を持っていた気がする。「朝鮮人学校と喧嘩する」、とか、そいう文脈で存在していた気がする。

インスタントカメラを、「馬鹿チョンカメラ」と言っていたら、「チョン」って差別用語だと言われて、驚いた。「馬鹿でも、チョンでも」って、意味を分からず使っていた。
子供って、怖い。
「チョン」という言葉は、江戸時代からあったそうだが、差別的に使われるようになったということで、今では放送禁止用語ではないだろうか。
耳にすることが無くなった気がする。


人間の本質は善である、と信じたいけれど、偏見や差別があるのも事実だ。
偏見や差別は、知らなければ起こらない、ともいう。
親が何気なく言っている言葉で、子供が同じ見方をするようになる。
大人が何気なく使う表現で、子供に刷り込みが生じる。

 

知らなかった、ではすまされない。
大人は発する言葉に責任を持たなくてはいけないな、と。
そんなことを思った。

 

「ジニのパズル」は、最終的にはジニが救われるし、ジニが前に歩き出そうとする希望のハッピーエンドで終わるから、小説としては前向きだ。

 

でも、それは、ジニにとっては希望であって、「在日朝鮮人」が抱える社会問題はなにも解決していない、という事実もあるように思う。

 

無意識の差別ほど、罪なことはない。

それを、思い出させてくれた気がする。

本の読み方って、色々。

小説も、色々。

 

だから、読書は楽しい。

 

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