「小さないじわるを消すだけで」by  ダライ・ラマ14世、 よしもとばなな

「小さな いじわるを 消すだけで」
ダライ・ラマ14世
よしもとばなな
幻冬舎
2014年10月25日 第一刷発行

 

図書館の棚で見つけた。
薄い一冊。
面白い組み合わせの二人。
すぐに読めそうなので、借りてみた。


ダライ・ラマ14世は、チベット仏教ラマ教)の最高指導者。1935年生まれ。人々を救済する観音菩薩の化身と信じられるダライラマ13世の転生として認められ、5歳で14世として正式に即位。中国の弾圧とチベット民衆の一斉蜂起により、インドに亡命。インド北部ダラムサラチベット亡命政府を樹立。2011年に政治的トップを引退した後も、精力的に各国を訪問し世界平和に向けた活動を行っている。1989年ノーベル平和賞を受賞。

よしもとばななさんは、1964年生まれ。吉本隆明さんの次女。 父、隆明さんの晩年、その病室でダライ・ラマ14世マントラを流していたという。

 

マントラ??聞いたことはあるけれど、はっきりと説明できないので調べてみた。広辞苑によると、

マントラ (mantra):インドの宗教儀式で用いる呪文。仏教では真言と訳す。

だそうだ。

そうか、ばななさんは、ダライ・ラマ14世の言葉で、父親に安らかになってもらいと思うくらい、チベット仏教にいれこんでいたのか。。。知らなかった。

 

本書は、平成25年(2013年)11月24日、京都精華大学主催で行われた対談講演「世界を自由にするための方法~宗教家と芸術家の視点から~」をまとめたもの。

対談講演は、ばななさんの話から始まる。
そのタイトルが、「『小さないじわる』の正体」

ばななさんは、心が痛いと感じた『小さないじわる』について語り、それがなくなればいいのに、、と、語り掛ける。
彼女の言う、『小さないじわる』とは、人が慈悲の心を失ったときに、ふと表に出てしまう小さな行動。


話を聴いてほしそうにしている人に、忙しそうな振りをする、とか。
おめでたい話をきいたのに、「おめでとう」と言ってあげない、とか。
間違った指定席に坐ってしまったことを、一方的に怒ってくる人、とか。
具体的に、ばななさんが家族と一緒の時に経験した新幹線の中での出来事が語られる。体調が悪かったからちょっと横になっていただけなのに、乗客ではなく車掌さんからいきなり起こされて叱責されたと。読んでて辛くなる話だった。

『小さないじわる』、それは、責任が伴わないから尚よくないのでは、というのがばななさんが言わんとすること。

犯罪や、戦争は、責任が問われる。
でも、『小さないじわる』は、責任までは問われない。
電車で、目の前の人が杖をついているのに席をゆずらない、、、とかも『小さないじわる』かもしれない。

 

そこには、自分と他者との間の壁がある。でも、本当は人は人と何かを共有して生きているのではないのか、とばななさんは言う。
だからこそ、自分を知ることが大切。そして、他者を思いやり、ただ生き抜くことで、人生を楽しみ、全うすればいいのではないかと。

 

ばななさんの話をうけて、ダライ・ラマ14世が、インド仏教の言葉を紹介する。

「正す手段が存在してるならば何も心配することなく、正す努力をすればいい。しかしその問題に対して、何も手段がなければ、やはりそれ以上心配しても全く無意味である。」

ホント、それはそうだ。

 

解決の手段がないことを心配してもどうにもならない、というのはよくわかる。仕事や人間関係の心配は、自分の努力で対応できることは、頑張ってもいいけれど、自分ではどうにもならないことをやたらと心配してもストレスになるだけだ。

万事を尽くして天命を待つ、位の気持ちの方がいい。

田坂さんの言うところの、覚悟だ。

megureca.hatenablog.com

 

そして、
「本当にきつい、厳しい状況に直面したとき、私たちは現実というものを受け入れざるを得なくなります。(中略、祖国を失い、難民としてインドに亡命した経験を受けて)    私は、自分自身をより現実的なものの見方をする人間に変え、より広い視野に立って物事を考えることができるようになりました。そのような意味において私は中国共産党、当局の方々に心から感謝しております。」
と、ダライ・ラマ14世は語る。

自分を迫害した中国共産党に対して、感謝するのだと。

キリストの「汝の敵を愛せよ」と言うのと同じかもしれない。

現実を見る。そのためには、感情的になりすぎず、客観的に物事を見定める習慣がもつことが大事、とダライ・ラマ14世は言う。

 

言うは易し行うは難し。
It's easier said than done.

 

感情的になりすぎないず客観的に現実をみたり、不安に押しつぶされずに心安らかにいるためには、自分の中に自信と希望を高める努力が必要だという。信仰があるのであれば、その神を考える。キリスト教ならばイエスを。仏教ならばブッダのことを。どのような宗教も信仰していないのであれば、伝統や自分が良いと思ったものの考え方に基づいて、良き思いを自分の中に育む。


「大いなるもの」の存在を、朝起きた時に考えると良いというのは、引き寄せの法則、みたいなスピリチュアルな本でもよく言われる。
朝起きたら、祖先に感謝する、とか。なにか大切なものがある方向に向かって、挨拶する、とか。祖先を大切にするというのは、伝統を大切にすることの一つかもしれない。

圧倒的な何かを思うとき、人は謙虚な気持ちになれる。
そういう意味で、信仰をもっていたり、心から尊敬する人がいるというのは、幸せなことだ。

 

本書の終わりの方は、ダライ・ラマ14世への質疑応答のような形になっている。参加者からの質問に答えた、という事なのだろう。

 

ダライ・ラマ14世の言葉なので、それはチベット仏教の言葉であり、輪廻の考えに基づいている。

そこに共感できるかどうかは別として、「自分の努力でどうにもならないことは必要以上に心配しない」というは、まさにその通り、と思う。

 

自分で努力をすればいいのに、努力もせずに心配しているのは、努力が足りない。

試験勉強をしていて、合否を心配するとか。。。

やれることをやったなら、自信をもって臨めばいい。

仕事だってそうだ。

大事なプレゼンがうまくいくか心配するくらいなら、絶対に自身が持てる、と思えるまで練習すればいい。

 

ただ、その努力の方向が間違っていないか???と、時々自分を客観的に見直すことは大切。

 

今日は昨日の続きで、明日は今日の続き。

今朝の一歩が、どっちに向かっているか、ちょっと内省してみよう。

 

読書は楽しい。

 

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小さないじわるを消すだけで