絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか
Good Economics for Hard Times
アビジット・ V・ バナジー
エステル・デュフロ
村井章子 訳
日本経済新聞出版
2020年4月17日 1版1刷
山口周さんが、何かのWebinarの中で、「インターネットで新たな成長が始まったという証拠は一切ない」という引用元として紹介されていた本。 情報伝達のスピードが上がっても、経済成長につながるわけではない、と言う話の流れで。
どんな本なのか、気になったので図書館で借りてみた。予約してから半年くらいたって順番が回ってきた。
一言、感想。
希望は、わかないなぁ、、、、。
という感じと、自分自身の経済学の不勉強さを思い知らされた感じ。
経済学を学び直したいな、と思った。
とはいうものの、感じた範囲で覚書。
この本を読んだからといって希望がもてるのではなく、経済学と言うのは絶望を希望に変えなくてはいけない、という主張の本のようだ。原書のタイトルをみれば、希望に変えるとは、一言も言っていない。厳しい環境のなかで、経済学とはどうあるべきか、という本。
著者のアビジット・ V ・バナジーは、 MIT フォード財団国際記念教授(経済学)。2019年ノーベル経済学賞を受賞。コルカタ大学(インドの西ベンガル州にある公立総合大学)、ジャワハルラール・ネルー大学卒(インドの首都ニューデリーにある研究型国立大学。インドの社会科学研究の最高峰)。専門は、開発経済学と経済理論。
エステル・デュフロは、アビジット・ V ・バナジーの配偶者。 MIT アブドゥル・ラティフ・ジャミール記念教授(貧困削減及び開発経済学担当)。2019年ノーベル経済学賞を史上最年少で受賞。フランス出身。
二人が、2019年にノーベル経済学賞を受賞したのは、「途上国での貧困解消に向けた効果的な政策を確かめるため、フィールド実験に基づいた革新的な研究を実施したこと」を讃えてのことだそうだ。調べたら、そうでてきた。具体的なフィールド実験は何を指すのかまでは調べなかった。
ノーベル経済学賞の内容がアタマに残っていなかったのだから、いかに、私の興味のアンテナは経済学に関して低いか、、ということだ。
本書は、全般に、いま世界で起こっている様々な救いようのない?!絶望について報告されている。それは、発展途上国のことではなく、先進国でも格差という形で見られる。つまり、残念な現実をまっすぐに見つめた本、という感じだ。
インドにおけるカースト制。21世紀の今なお残る身分制度。モディ首相は、下位カースト出身だ。そういう意味で、変わってきてはいるだろうけれど、ヒンディー経の教えであり、長年の習慣であるものは、そう簡単にはなくならない。カースト制の中で制限される職業。
その現実を、本書は伝えている。
余談だが、それでもインドの方が日本より男女平等達成レベルは高い、、、、。男女ということより、カーストが優先される、ともいえるかもしれない。
アメリカでは、人種や移民に対する偏見は今なお社会を二分する。経済学的に調べてみれば、移民が来たからといって元居た住民たちの職業が奪われるという事実は認められない。仕事を奪われるなんて言う不安は不要なのだ。逆に、自分たちがやりたくないような仕事を移民が担ってくれることすらある。かつ、人口が増えることで経済は活性化するということが明らかになっている。だが、移民反対をする人々がいる。反対活動は、移民が少ない地域ほど多いそうだ。あるいは、トランプが移民反対を声高に言うから。知らないから、受容性がたかまらない。わからないから恐れ、知ろうともしない人がいる。これがアメリカの現実。
オバマ政権初期の希望の光が、ブレグジットや黄色いベスト運動、「ウォール街を占拠せよ」の混乱にとって代われる中、不平等が蔓延し、環境破壊と政策の失策が世界に暗い影をおとしている、、、と、そんな現在の描写が序文にある。
一応、序文には、「本書を書いたのは、希望を持ち続けるためである。本書では問題を提起するとともに、分析結果に誠実に向き合い、より良い世界にする方法も提案する。」とある。
ただ、読み進めていくと、良い世界にする方法の提案というのは、結局のところ「ユニバーサル・ベーシック・インカム」の導入、ということのように読み取れる。
私には、良い方法の提案が、充分理解しきれなかった。
山口さんの『ビジネスの未来』でも、「ユニバーサル・ベーシック・インカム」の導入がすすめられていたのだが、かれの『ビジネスの未来』は、この本に大きく影響されたのだな、と言うことがよくわかる一冊だった。成長の終焉についても、この本が大きくその証拠を示している。いま、『ビジネスの未来』を見直してみると、参考文献の筆頭にあるのが、本書『絶望を希望に変える経済学』だった。読む順番、違ったかな?ま、いっか。
第二次世界大戦後の成長は、1970年代には鈍化している。
1980年代には、教育水準はあがり、その後シリコンバレーの台頭。インターネット、SNS。しかし、どの国も、経済成長は1970年代からすでに鈍化がはじまっていたのだという。
1979年にハーバード大学教授・エズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出版して、日本はもうすぐすべての国を抜き去って世界一の経済大国になると予言した。だが、実際には翌年1980年に日本の経済成長率はがくんと落ち込み、その後、それまでの水準には戻っていない。
その鈍化は、インターネットが出現したからと言って、改善されない。
インターネットの出現も、具体的成長につながったという証拠はなにもない、というのだ。
FacebookやTwitterも経済成長へはつながっていない。逆に、Facebookをやることで、生産性のある時間を無駄に消費してしまっているのではないかという意見や、SNS断ちをすると、人はより幸せを感じるようになる、という分析もある。
インターネットによって、フェイクニュースの拡散、同質性のある仲間の中だけでの交流が増え、集団の結びつきを強くする一方で、排他性も強くなっていく。二極化が促進されてしまう。
確かに、インターネットの普及により、情報へのアクセスは圧倒的に容易になった。以前ならその場へ足を運ぶか、郵便でしか取り寄せることのできなかった情報がどこでも手に入れることが出来るようになった。
だが、結局は、その情報をどう活用するかが大事という事なのだろう。
ネットで流れてくるニュースを知ったところで、情報を活用しなければ何も変わらない。かえって、不安をあおるニュースで不安になるのでは、マイナス影響だ。
ネット会議は、確かに移動時間の削減につながる。でも、出来た時間を何に使うかが問題、ということだろう。その分、ただゴロゴロしていたら、、、体力・気力の温存ということでは、意味があるとは思うけど、家族との会話が増えるとか、読書の時間が増えるとか、出来た時間のすべてとは言わないけれど、前向きな何かにつかえれば、プラスになる。
本書の最後に、
結論:良い経済学と悪い経済学
という項がある。
「良い経済学は、無知とイデオロギーを打ち砕き、防虫剤処理を施した蚊帳をアフリカで売るのではなく無償で配布させることに成功し、マラリアで死ぬ子供の数を半分に減らした。一方、悪い経済学は、富裕層への減税を支持し、福祉予算を削らせ、政府は無能な上に腐敗しているから何事にも介入べきではないと主張し、貧乏人は怠け者だと断じて、現在の爆発的な不平等の拡大と怒りと無気力の蔓延を招いた。」
そして、政策と経済学は切っても切り離せない、と訴える。
だから、経済学者は、誰かの都合に合わせた「疑う余地がない」などという主張に騙されず、エビデンスを吟味し、問題を単純化せずに根気よく取り組み、問題解決への行動を呼びかけなければいけない、という。
竹中平蔵さんの著書に、「良い植物学者が、良い庭師になれるわけではない」、という比喩があった。庭師の発想で考えよ、という文脈の中で。言い換えれば、良い経済学者が、よい政治家になれるわけではないのであろう。だけど、経済学という知識は政策を考える上では重要なことであり、政策立案者の発想で、経済学をみる、ということが大切なのかもしれないと思った。
複雑性が増していく世の中ではあるけれど、エビデンスを吟味して、問題を単純化せずに解析する。それは、経済学者がやってくれるのだろうけれど、その情報を色眼鏡なしに受け取り、理解し、自分がどのように行動すべきかを考える。それが、大人の責任かもしれないな、と思った。
経済学、もうちょっと勉強したいな、と思った。
「ユニバーサル・ベーシック・インカム」、ちょっとアンテナを立ててみようかと思う。
読書は楽しい。