禅の言葉 「衆水(しゅうすい)海に入りて一味なるが如し」

今朝教えていただいた、禅の言葉
「衆水海に入りて一味なるが如し」

 

同じ意味の言葉は、ロサンゼルス禅センターにも掲げられているとのこと。

 The Ocean does not refuse any kind of water.

日本語だとなんだか難しそうだが、英語のほうが分かりやすい。

「海は、どんな水でも拒まない」

なるほど。


「衆水海に入りて一味なるが如し」は、道元の言葉と言われているが、元々は親鸞の言葉とのこと。

 

あらゆる川は、どんな川であっても海に入れば、塩っ辛い海の水になる。一つの海水になる。


万物の成り行きを、広い角度、長い視点で見ている言葉。
禅の一つの側面、ということ。

 

もともとは、正信偈親鸞教行信証の一文から。
「凡聖(ぼんしょう)、逆謗(ぎゃくほう)、ひとしく回入(えにゅう)すれば、
衆水(しゅうすい)、海に入りて一味なるがごとし。

 

「凡聖」(ぼんしょう)というのは、煩悩にまみれて迷っている「凡夫」と、煩悩をなくして清らかになられた「聖者」とのこと。

「凡夫」と「聖者」とは、煩悩に支配され続けているか、それとも煩悩を滅し尽くしているか、そこに違いがある人々のこと。

 

「逆謗」(ぎゃくぼう)というのは、「五逆」(ごぎゃく:①父を殺すこと ②母を殺すこと ③聖者を殺すこと ④仏のお体を傷つけて血を流させること ⑤教団を分裂させること)という重い罪を犯した人と、「謗法」(ほうぼう:仏法をそしる)という悪をはたらく人。悪いことをした人々のこと。

 

「回入」(えにゅう)と言うのは、回心して帰入すること。つまり、自分の思いにこだわり続ける心を放って、真実に目覚めること。

 

煩悩があろうがなかろうが、過去に罪を犯そうが、真実に目覚めた人はみな同じである、ということ。

 

川の水は、人。海は、禅の行きつく真実の世界、ということかな。

 

海に流れ込む水は、それぞれ水源の違いがある。途中でどのようなところを流れてくるのか、それによって色々な色合いが付いてくる。そのように色々な状況を経てきたとしても、川と言うのは最終的には海に入れば、すべて同じになる。

 

人も、どこで生まれ、どのような人生を送ってこようと、真実の世界に目覚めれば、同じこと。

 

人生をシンプルに言ってしまえば、生まれて死ぬ。

長さも、何をしたかも、関係なく、最後は死。

 

長い目で見ると、目の前の小さなことは、どうってことない、、、ってことかな。

 

心ではわかっていても、小さなことにもこだわってしまうのが人間。

時々、広い視野、長い目で人生を見つめることを思い出すために、海に行きたくなるのかもしれない。

 

日本は、海がある。

そばに海があるというのは贅沢なことだ。

 

海のそばで坐禅すると、もっと気持ちいかもしれないなぁ、なんて思った。

 

目の前のことにとらわれすぎず、長い目で考えよう。

「重要で緊急なこと」も大事だが、「重要で緊急でないこと」も大事だ。

そんな、七つの習慣の言葉を思い出した。

 

師走だし、そろそろ一年の振り返りの季節だ。

あれもこれも、まだまだやり残しがあるけれど、まぁ、ゆっくり、じっくり、やっていこうと思う。

 

 The Ocean does not refuse any kind of water.

 

海は、広い。

心を海にしよう。