計算する生命
森田真生
新潮社
2021年4月15日 発行
ふたたび、森田さんの本。
2021年の発行だが、2017~2018年まで雑誌「新潮」に掲載された連載がベースとなっている。
2015年の『数学する身体』では、数学を通じて人間の「心」に迫った二人の数学者、アラン・チューリングと岡潔について書かれた。チューリングが心を”つくる”(コンピューターの基礎となるチューリング機械の発明)ことで心を理解しようとしたとすれば、岡は心に”なる”(真我、情緒の一体)ことで心をわかろうとした、と言う話。森田さん曰く、この二人のアプローチを対比させて、数学を通じて心を探究していく、多様な可能性を浮かび上がってみよう、として書かれた本。
本書は、こころを形づくる「言語」と身体を突き動かす「生命」、そして数学の発展を起動してきた「計算」という営みに集中し、
”前作を「心と身体と数学」とするならば、「言語と生命と計算」が主題となっている。”
と、あとがき、で森田さんは語っている。
これまでの森田さんの本を読んでいなくても、本書を読むと、森田さんが数学とは一見はなれていそうな「言葉」や「心」に着目していることがよくわかる。
「言葉」は、ものをしめすだけではなく、気持ちを表現することもできる。
人類の進化の話をすると、「言葉」の進化が分かりやすいけれど、「計算」も進化を助けてきたのだ、と気づかされる一冊。
わたしたちが毎日使っている携帯電話だって、なかで動いているのは、計算、だ。いまでは、そろばん、なんてものは使わなくなったから、日常生活で計算しているなんておもわないかもしれないけれど。天気予報だって、COVIDの感染拡大予測だって、コンピューターが計算している。朝から晩まで、数字と計算にあふれて生活しているのだ。
あふれて、なのか、溺れて?なのかわからないけど、、、。
構成は以下の通り。
第一章 「わかる」と「操る」
第二章 ユークリッド、デカルト、リーマン
第三章 数字が作った言語
第四章 計算する生命
終章 計算と生命の雑種(ハイブリッド)
本書では、ギリシャ哲学にはじまった数学が、ビサンティン文化からアラビア語圏へ広がり、後にラテン語圏にもひろがってグレゴリオ暦が発明され、イエズス会の普及活動に影響したかという歴史の話から、リーマン、ウィトゲンシュタイン、フレーゲ、偉大な数学者の活躍の歴史、現代に生きるロドニー・ブルックスの話にまで発展する。
ロドニー・ブルックスは、「ルンバ」の生みの親だそうだ。1948年、オーストラリア・アデレード生まれ。彼は、掃除ロボットに、手足を作った。計算するロボットに、手足をつけた。なるほど!!
パソコンは、掃除できないけど、ルンバが掃除をできるのは、そこに手足を付けたから!
あ、、なるほど!!である。
チューリング機械は、いってみれば計算機だけだ。
そこに、身体をつけた。
そしたら、お掃除ロボットになった。
今では、当たり前と思っているかもしれないけれど、計算機と手足が組み合された!なるほどーー!と、読んでいて、思わずニンマリ。
でも、ルンバも、人がいないと掃除ができない。
床のモノをどけてくれる人がいないと、掃除ができない。
やはり、どんなにロボットが発達しても人は必要だ。
途中、哲学と数学が交わる中で、カントの「純粋理性批判」が引用される。哲学の本をよんでも、カントの「純粋理性批判」は、わかりにくかったのだけれど、森田さんの説明ですこし分かったような気になった。
カントが言いたかったのは。
「認識とはただ存在を受け取る営みではない。認識とは認識する行為によって対象を作り出していく営為である。」
そしてそこには、
「『感性』と『知性』の協働がある。」
『感性』が、直観を刺激し、概念が浮かび、判断につながる。いきなり、『知性』が働くわけではない。直観は、じかに、身体ごと受け止めた時に刺激される。
身体と『知性』がリンクしているということ。
また、カントが言う「直観」とは、「外界の対象から到来する様々な感覚データをじかに受け取る」ということ。いわゆる、ある種のヒラメキを示唆する「直観」とは違う概念として使っていることに、注意。
説明が難しいので、森田さんの文章を引用すると、
「例えばリンゴを認識する時、私たちはまず感性を通じてリンゴの漠然とした印象を直感する。つまりリンゴによってもたらされる種々の物理的刺激を、感覚器官を通じて「じかに受け取る」。この時、直感されたままのリンゴは、未だ雑多な感覚的印象の束にすぎない。直感された内容を「リンゴ」という「概念」のものにまとめあげる知性の働きを通じて初めてこれは「リンゴ」だという判断が生まれる。
感性による直感だけで認識が完結するのではなく、知性が概念を駆使しながら感覚データを秩序付けることによって、判断が形成されると考えるのだ。
こうした感性と知性の協働によって作られる「リンゴ」の認識は、認識する私たちの行為とは独立な「リンゴそのもの(カントの言葉では『物自体』)」に至ることはない。それは認識主体によってこしらえられた主観的なものという意味で、あくまで現象に過ぎない」
(本文、105ページ)
長くなるので、あいだの説明を省くが、そこから
「アプリオリ(ア・プリオリ=先立つ・前の)な総合判断はどうして可能か」という問い、つまり、「経験には依存しないが、同時に拡張的(生産的)であるような判断は可能なのか?」という問いが生まれる。そして、そこからカントの「数学像」が導き出されていく。
上手く表現できないのだが、数字と言葉と経験と知性と、、、どれもが関係しあい、協働しあって認識ということができる。
第三章、第四章で、人工知能のはなしがでてくる。そこからルンバの話にもつながっている。
「人工知能の誕生は、西洋の合理主義哲学の具現化である。著書『コンピューターには何ができないか』でドレイファスが見立てた通り、その後の人工知能は研究は、人間の知能が、いかに単純に規則に従うことだけではないか、を明らかにしていく。知能を実現するためには、「状況」や「身体」が不可欠だと見抜いたブルックスが世に送り出したロボットたちは、「知性」を支える「生命」の探求へと研究者たちを導いていった」
と。
やはり、生命にしかないモノがあるのだろう。
人は、雑踏の雑音の中でも、自分の名前を呼ばれると、聞き取ることが出来る。
海外で、ふと聞こえてくる日本語を聞き取ることが出来る。
生命と言うのは、本当に不思議な力を持っている。
どれだけ、計算が高速化され、ロボットが日常になっても、やっぱり、人は人であり、人なしには生きていけない。
生命は計算している。
計算だけ切り出しても、生命にはなれない。
岡潔のいう、「種は人がつくることはできない。かぼちゃの種は、かぼちゃにしかつくれない」、ということだ。
本書もまた、ちょっと不思議な感覚の本だった。懐かしいような、新鮮なような。
カントの話や、難しい数学の話もなくはない。
分かりにくいとき、本当に声をだして繰り返し音読してみると、なんとなくわかるような気がしてくる。
計算の話から、「純粋理性批判」の話が出てくるとは思わなかった。最後に文献が掲載されているが、森田さんはいったいどこからこれだけの文献を読み、今は亡き数学者たちの交流を解き明かしたのだろう、と思う。ねっからの研究者なのだなぁ、と、ちょっとうらやましく思う。
そして、表紙の文字が躍っていることに、注目!
視覚とは面白いもので、一瞬違和感を感じるものの気が付かない。
文字も記号だな、と、つくづく思う。
横向きになっていても、意味で理解している。
世界は、まだまだ研究対象にあふれている。
「在野」の研究者、これからもっと増えるのかもしれないな、と思う。
読書は楽しい!