『ガラスの50代』 by 酒井順子

『ガラスの50代』
酒井順子
講談社
2020年11月16日 第1刷発行

 

図書館で借りた。さらーーっと、読む感じの本。

50代が、ガラスのようだとは思わないけれど、50代なりの楽しみがあっていい、ってことかな。

 

酒井順子さんと言えば、2003年『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなったコラムニスト。1966年生まれ。東京都出身。高校生の時から雑誌にコラムの執筆を始め、立教大学卒業後、広告代理店勤務を3年ほどで、退職。その後執筆に専念。

『負け犬の遠吠え』は、嫁がず 産まず、30代を迎えた自分自身を「負け犬」と揶揄し、同世代の女性へのメッセージ本。
”どんなに美人で仕事ができても、30代以上・未婚・子ナシは「女の負け犬」なのです。”と。

 

酒井さんは、私より、2歳年上。バブル期を大学生として過ごし、男女雇用均等法が導入された頃に就職した世代。自分たちを卑下するような言葉は好きではないが、世代的に共感することがある。そして、その彼女が50代になって書いたのが本書。2019.1.8~2020.6.23のエッセイをまとめたもの。

 

50代になって、30代、40代とは違う楽しみが出来てきたというのは、わかる気がする。

「懐かしむ」という楽しみ方は、大人のだいご味、そうかもしれない。
ユーミンや、松田聖子を聞いて懐かしめるのは、かつて彼女らの歌を聞きながら、恋して失恋した時代があるから。ふと、若かりし頃の自分を思い出す感じ。

 

神田沙也加さんのニュースは、本当に胸が痛むけれど、それ以上に聖子ちゃんの気持ちを思うと、いたたまれなくなる。。。聖子ちゃんに早く笑顔が戻りますように、、と願わずにはいられない世代、50代の私たちだ。

 

ボヘミアンラプソティ』の話がでてくる。『ボヘミアンラプソティ』を本当に楽しめた世代は、絶頂期のQueenを青春の一コマとして記憶している世代だったかもしれない。私は、中学生の時に、同級生からQueenをダビングしたテープをもらったことがあった。洋楽なんて聞くことがなかったから、新鮮だった。テープだよ、テープ。MP3ではない。そんなことも思い出しながら観る『ボヘミアンラプソティ』は、ただのミュージシャン物語の再現とみるより、ずっと懐かしく、楽しめた。テープをくれた男の子の名前もわすれちゃったけど。

 

8050問題とか、孤独死とか、、、50歳で直面する現実も色々あるけれど、50代なりの年相応でいいのではないか、と。


「エモい」とか「ヤバい」とか若者の流行り言葉を無理して使うことは無い。日々衰える自分の肉体を無常として受け入れ、今あることをありがたく思えればそれでいい。

私も、先日、スポーツジムの20代のインストラクターの女の子に「Megさん、エモい」と言われて、ハハハと笑って返したものの、「エモい」のほんとのところの意味合いがよくわかっていない。検索すれば、「なんとも言い表せない素敵な気持ちになったときに使う」、、とでてくるけど、不思議な言葉。少なくとも、彼女は誉め言葉として言ってくれたみたいだけど。

 

40代になると、「自分のために生きたい」という欲求が、ふたたび盛り上がるのではないか、と酒井さんはいう。
子育てがひと段落して「子育て」という、絶対的に誰かに頼られるということに費やす時間がひと段落し、たとえ自分が子供を産んでいなくても、同世代の友人たちのひと段落感が、なんとなく伝わってくる40代。子育て中は忙しくて会う機会もなかった同級生や職場の同期とふたたび食事をするようになったり。20代、30代の子育て世代は、どうしたって、話の中心が子供になり、子アリと子ナシのあいだの話題のずれは否めない。そんな溝がうまるのが、40代。

子ナシは、子ナシで、自分で直接子育てができなかった思いを、外に向ける。

自分は子育てをしていなくても、誰かのためになっている、と思いたいから寄付をしてみたり。ボランティア活動に邁進したり。

 

ちょっと、分かる気がする。
自己満足のためなんだよな、と思う。
寄付もボランティアも。
ぜんぜん、それでいいのだ。
誰かのためになっているような気になるため。
本当に、役に立っているのかは分からないけれど、少なくとも一番シンプルな「お金の寄付」は、何らかの役に立っているだろう。

 

確かに、ユニセフみたいなわかりやすい、でも直接の対象が目に見えない寄付だけでなく、40代、お金の余裕もできたこともあって、顔の見える寄付をすることが増えたなぁ、と思う。クラウドファンディングみたいな仕組みもできたし、お金に余裕のある人は、どんどん若者にお金が回るように寄付をするってありだと思う。お金持ちの高齢者には、クラウドファンディングをすすめよう!なんて。

お金は、死ぬときゼロ円が一番いい。

 

本書の中で、この30年の間に変わった外部環境として、人権の意識、が取り上げられている。一番わかりやすいのは、「ハラスメント」だろう。
平成元年、「セクハラ」と言う言葉が新語・流行語大賞にノミネートされた。
しかし、「セクハラ」は流行語になっても、著しくセクハラが減少するということは無かった。「#Me Too」運動で、世の人が「マジでセクハラはやばい」と実感し、女性がカジュアルに「No!」と言えるようになるまで、30年かかった、という。
確かに、そうだよな、と思う。

だいたい、セクハラもパワハラも、本人にその自覚がないのだから、世代交代するまでなくならないのだろう。。。

東京2020での森元首相の問題発言、あの世代のおじさんたちは、それでもあの発言の何がいけないのか理解できない人もいるようだ。

とある会合の雑談で、「森さんを解任するなんてとんでもない」と憤った70代のおじさんがいて、さすがに同世代のおじさんたちも、一瞬凍った。今の時代、そうは思っても口にしてはいけない場面がある。。。森さんがどれだけ素晴らしい実績があろうと、人間的に素晴らしいひとであろうと、言ってはいけないことは言ってはいけないし、それを放置してはいけない。

 

酒井さんが指摘している。
「『それくらいは、我慢できるのでは?いちいち騒いでいたら、世の中がギスギスしてしまう。上手にスルーするのが大人でしょうよ』などというのはたいてい昭和世代。昭和の世代が、ギスギスしていなかった、と思っている人は、その空気が誰かの忍耐によって成り立っていたものだとは気づいていません。」

本当に、残念だが、その通りだ。


忍耐が美徳の時代ではない、ということなのかもしれない。
かといって、自分本位でいけばいいということでもない。
どうすればいいのか、この変化の時代においては、ロールモデル」を求めるのではなく、自分で考えて判断する力をつけることが重要なのだと思う。 

 

やっぱり、自分の頭で考える、って、大事だ。

考えられる頭を鍛えよう。

 

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『ガラスの50代』