寂聴さんの本だから借りてみた。
『悔いなく生きよう』のなかで、山田詠美にアニー・エルノーが面白いと言われて、彼女の作品を読み、それに触発されるようにこの『場所』を書いたと語っている。
アニー・エルノーの『場所』は、自伝と言うよりは父親の物語だからちょっとちがうけれど、過去を振り返ったお話であるところは共通。
裏表紙の紹介文から引用。
”父の故郷「南山」、母の故郷「多々羅川」、夫と娘を捨てて出奔した「名古屋駅」、作家としての出発点であり、男との複雑な関係も始まった「三鷹下連雀」そして「西荻窪」「野方」、ついに長年の出家願望を成就させた「本郷市壱岐坂」。父、母を育み、様々な波乱を経て一人の女流作家が生み出されていった土地を、80歳にして改めて訪ね、過去を再構築した「私小説」。野間文芸賞受賞作。”
私は、寂聴さんについて詳しいわけでもないので、今回改めて、寂聴さんの生い立ちやら、小田仁二郎、涼太との三角関係のこと、そうだったのか、という話もたくさん。
最初の「南山」という章では、父親の故郷が、次の「多々羅川」では母親の故郷の話が語られる。出家したあと、80歳ちかくで両親の故郷を訪ねるというのは、どういう気持ちになるのだろうか。。。
寂聴さんは終戦を北京で迎えている。その間に、母親は昭和20年7月3日、空襲で焼け死んでいる。母親が亡くなったことを知らないままに、引き上げ者として日本に戻り、焼野原の街で母親が亡くなったことを知る。どういう気持ちだろうか、想像できない。戦争なんだから、そりゃ、亡くなった人が大勢いることはわかっていても、自分の家族は大丈夫だと信じたくなるのが人間ではないだろうか。。。
寂聴さん、晴美がうまれた頃、母親は病にかかり、思う存分赤ちゃんの晴美を可愛がることが出来なかった。だから、晴美が5歳になったころ、自分の病気が回復してからは、晴美を溺愛していたという。5つ年上の姉、艶は、お母さんを取られたという気持ちになるくらい。
「多々羅川」の中で、思いがけない寂聴さんの言葉がつづられている。
「母がもし戦災死していなかったらという仮定で、私はしばしば自分の生涯を考えてみたことがあった。おそらく、私は離婚していなかっただろう。万一、離婚しても、母は絶対私の娘を引き取り、私を絶縁し、自分で育てたであろう」
晴美の母は、貞操堅固で、父親のわずかな浮気沙汰にも心身を痛めつくしていたという。自分の出奔が、母を苦しめることになるかもしれない、という気持ちが、おもいとどめさせていたかもしれない、という事なのだろう。
死にたいくらい嫌なことがあっても、両親が生きている間は死ねないなぁ、、、と思う心境みたいなものか。。。
晴美が、三才のかわいい盛りの娘を捨ててでも不倫に走った男、涼太は、夫の教え子だった。夫に好きな人が出来たと告白し、それは誰だと問われ、3者会談?!が繰り返される。
そのうち、夫は晴美に暴力を振るうようになっていたようだ。殴られて、目にアオタンを作って友人の家に逃げたり、、、まぁ、それは、いわゆる修羅場だったのだろう。
そのくだりは、初めて知った。そんなだったからか、お姉さんは、夫よりも涼太の方を気に入っているようなところがあったと。それは、晴美にとっては救いになっていたのではないだろうか。。。自分の不貞の相手を、否定しない姉がいてくれることを。
夫は晴美と娘を連れて、涼太から離れた土地に引っ越す。それでも、結局、晴美は出奔するのだ。。。
本書の中に、「出奔」と言う言葉が何度も出てくるのだが、きっと、今の若い子には、なんのことだかわからないのではなかろうか?
家出をしたら、行方の探しようのない時代。
今なら、携帯電話で即アシがつきそうだ・・・・。
寂聴さんの告白によると、愛した男の人は、夫、小田仁二郎、涼太、だけではなかったようだ。それでも、「純粋な恋に燃えたのは、涼太との場合だけだった」と語っている。
まぁ、夫の場合は、恋することもないままに「ある日から夫婦」と言う時代の結婚であるのだからわかる気もする。でも、小田仁二郎とは10年近くも半分同棲生活を続けていたわけだから、『夏の終わり』を読んでいると、やはり、仁さんの方を愛していたような気がするけれど。
純粋な恋なんて、あるのかな、、、なんて、意地悪く思ったりしなくもない。。。
純粋な恋をした寂聴さんへの、私のやきもちかな。。。
面白い、と思ってしまったくだりがある。
「小田仁二郎と長く続いたのは、彼が妻の家と一か月を等分して私の許に通い続けたからであり、私は男が家に帰っている間に、男に侵されていた空気を一人で充分補充することができていたからなのだった」
24時間、四六時中一緒にいると、空気が足りなくなる、、、、という事だと思う。
好きとか、嫌いとか、そいう事ではなく、寂聴さんにとっては一人になる時間が誰かと共有する時間と同じだけ必要だった、という事なんだと思う。
小田仁二郎とわかれて、新しく独り立ちをしようと思っていたところに転がり込んできた昔の男、涼太。狭い家に男と一緒に暮らすことは、息苦しく、いつでも自分の分まで男に空気を吸い取られているようで苦痛になってきた、と言っている。
純粋な恋に燃えた男でもね、そんなものよね。
ちょっと、笑ってしまった。
わかる気がするから。
寂聴さんは、どんなに愛した相手でも、時間がたてば「倦怠と弛緩」がやってくる、と言っている。そりゃそうだ。
まぁ、私小説なのだけれど、本当に、、、、すごい生き方をした人だな、と思う。
瀬戸内家は、明治時代にキリスト教になっていて、寂聴さんも晩年、キリスト教の洗礼を受けたいとおもったことがあったそうだ。そして仕事仲間のカトリック信者、遠藤周作さんに神父さんを紹介してもらう。でも、聖書を聞いているうちに、やはり自分には仏教的風土に生まれ育ち、医師からも生活環境からもそれが抜きがたいと悟ったという。そして、とうとう出家。
剃髪し得度してみると、前世から、そうであったような気がしたという。
途中、でてくる昔話に、時々そんなこととのつながりが、、というものがある。
出奔後に務めることになった編集社の面接で言われた「トマス・アクィナスの人間論」当時の寂聴さんには、チンプンカンプンだったと。
「天長節」??今は「文化の日」を「天長節」という昔の知り合い。太宰治の心中の話から、心中の翌年「天長節」に弟子の小説家が後追い自殺したと、語って聞かせる昔の知り合い。天長節って、天皇の誕生日のことなのね。知らなかった。いや?聞いたことあった気もするけど、忘れてる。明治天皇の誕生日が今の文化の日。昔は、戦前は天長節、大正時代には、明治節といわれていたらしい。
さすが、大正生まれの寂聴さんの話だ。
椿山荘が、山県有朋の豪華な屋敷跡だとか。
三島由紀夫や遠藤周作が、普通に仲間として語られているところも、時代を感じる。
最後は、先に亡くなっていった人を思い出しつつ、
「彼等のいる場所へ、いつになったら私はたどり着けるのだろうかと、風に訊いてみた。」
と、締めくくられる。
寂聴さん、彼等の場所にたどり着けましたか?
私たちは、寂聴さんのいない、2022年を迎えましたよ。
コロナがあっても、誰かが亡くなっても、年は明けるし、日は昇る。
毎日、新しい一日を迎えられるのだから、新しい気持ちで一日を始めよう。