禅の言葉 「趙州無字」

今朝、教えていただいた禅の言葉。

「趙州無字」


今日は、2022年、最初のZoom坐禅会。

禅の基本的考えと、その言葉について、最初のお話。

そもそも、

禅とは、こころの学問である。” (石田梅岩


人間学であり、一日の行動のすべてにつながっていくもの。
こころがわからなければ、イノベーションは起こせないし、人はついてこない。
つまり、こころがわからなければ、リーダーにはなれない。。。

 

禅のひとこと、としていつも「公案」を教えていただいている。
公案」とは、こころを理解するためのカリキュラム。
禅の修行の中でつかわれるものだが、Zoom坐禅会では、修行をしているわけではないので、「公案」としてこのような言葉があることを理解することが目的で、教えていただいている。


最初の公案
「無字の公案
公案は修行者の坐禅をチェックするために与える課題。考えるのではなく、全身で念ずること。臨済系では、最初の公案

 

趙州無字(じょうしゅうむじ)・・・・「無門関」第一則


趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に還(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや」。 州云(いわ)く、「無」


唐代末期の禅僧趙州に、ある僧が聞いた。
「犬にも仏性がありますか」。
趙州は答えた「無」。
すべてに仏性があるという教えで考えれば、「宥」といいそうなものだが、「無」と答えた。
これは、「ある、なし」の無ではない、ということ。


修行者が仏性の「ある、なし」や有無の「無」にこだわれば、どう工夫してもこの公案は透過できない。

最初の難関の公案ということだろうか。


「無」の一字は禅の基本である“真空無相(自我を捨てる。本来無一物)”そのもの。
「ある、なし」ではなく、絶対的な「無」


修行者は四六時中「無」を念じる。「無」を念じるのが最初の修行。


素人は、坐禅の時に呼吸を数えなさい、と教えられる。余計なことを考えないように、1~10と呼吸をかぞえ、10までいったら、また1、2、3、、、と数える。それを修行僧は、「無」と念じるのだそうだ。
「無」と格闘するうち、やがて三昧の境地に入ってくる。


外部の物音も動きも気にならず、自分の内部の妄想も消え果て、真空無相の静寂が訪れる。
無門慧開(むもんえかい)のいう内外打成一片(ないげだじょういっぺん)の境地。
自己と対象の「無」字が一体となる。


有無の相対の無ではなく絶対の無になりきる。
対象になりきるのが極意。
理屈で考える意識を敢えて殺す。
一切を空じる、殺す。
エゴを殺す。
小我を超える。
大我(真我)が輝きだす。
そうすると、世界が判る。

ということ。。

 

この公案は、2021年10月にも教えていただいた。

megureca.hatenablog.com

 

何度聞いても、わかるような、わからないような。

繰り返しが大切なんだということで、今年も「無」を教えていただいたのだと思う。

 

まだまだ、「無」はわからない。

坐禅をしていても、雑念だらけ。

それでも、ちょっと、アタマがすっきりする気がするから、今年もこの時間を大切にしよう。