禅の言葉 父母未生以前の自己本来の面目如何

今朝教えていただいた禅の言葉は、自分探しに関する言葉。

 

「父母未生以前(ふぼみしょういぜん)の自己本来の面目如何」

 

意味:「両親によってこの世に生み出される以前のあなたの本質はなにか」


父母が生まれる前の自己のありかはどこにあるのか。
長い宇宙の進化とともにある自分の本来の面目とは何か。

 

父と母が生まれる前に、自分が肉体として生まれている訳はないのだが、、、祖先から脈々と受け継がれたDNAの中に、過去があるということであれば、自分を時間軸で考えるのもわからなくはない気がした。

 

おっしゃっていたのは、

”現代人は、自分探しを「空間軸」でやっている。
今ある自分と、家族と、社会と、国と、世界と、宇宙と。

それは、現時点での横軸
それに、縦軸で、ビッグバン以来の「時間軸」の中で自分軸を探す、という両面で自分探しをするというのが、禅の教え。”

ということ。

 

父母の生まれる前の自分というはどこにあるのか、坐禅で体験せよ。
坐禅で体験したことを、問答の中で言葉にしてみよ、ということ。

 

一休禅師の詩に、

「闇の夜に鳴かぬ鴉(からす)の声聞けば 生まれぬ先の父ぞ恋しき」

というものがあるそうだ。


烏は黒い、闇の夜には見えない、鳴かない烏の声は聞こえない。
しかしその声が聴こえてくると、生まれる前の父(遠い昔の自己のありか)が恋しくなる。


ビッグバン以来の大生命の流れが自分の中にある。
という事を感じる。

 

言葉による解説はいくらひねくり回しても頭で理解したつもりになってもヒントにすぎず、答えは坐禅の中で見るしかない・・ 

 

それを、鈴木大拙は、「宇宙的無意識」、と言っているそうだ。

 

うむむ、、、そんなこと、感じたことないけど、、、。

ふとした瞬間に、懐かしさや切なさを感じる空間や時間があるのは、そういうことなのか?

赤ちゃんが、夕方になると泣くような。。。よくわからないけど切なく悲しくなるような、、、そんな感じ。胸がキュン、というか、ギュッというか、、、そんなかわいらしいものではないのだけど。たまに、自然の中で感じることがある。言葉で言い表せないのだけど、あれって、なんなのかなぁ、、、って時々思う。

 

空間軸の自分探しと、時間軸の自分探し

時間軸で、って意識したことは無かったなぁ、と思う。

 

 

養老孟司さんは、「自分探しなんてやめちまえ」と、よくおっしゃっている。

「本当の自分」を探すより、「本当の自信」を育てたほうがいい、と。 

探すのではなく、育てる。

自信が持てるというのは、どういう事なんだろう。

 

何が得意だとか、上手だとか、そういうことで自信につながることがあるけれど、人生における本当の自信というのは、

「私がやるべきことはこれだ」と思えることをしている、ということなのではないだろうか、と、ふと思う。

「自分の使命だ」といえることに取り組んでいる、ということ。

 

「この仕事は自分がやるべきことではない」、とか、

「この会社は私に向いてない」とか、、、

そんなことを思っているうちは、人生への自信は持てないような気がする。

 

違うと思ったら、飛び出していい。

過去の経験は間違いなく自分を作っている。

それを自信にして、自分が進むべき道を、進んでみればいいのではないだろうか。

 

時間軸の自分探し。

なんだか、可能性が無限に広がるような気がしてくる。

「今ここ」も大切だけど、今は過去からきているし、未来につながっている。

 

ま、難しいことはよくわからないけれど、

今日も一日、楽しもう。

 

健康第一。