僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回
森田真生
集英社
2021年9月30日 第1刷発行
森田さんの本だから、図書館で借りてみた。
また、シンプルな装丁。
で、シンプルなんだけど、表紙カバーの下に、なにか子供の落書きみたいのが透けて見える。図書館の本なので、シールされていてカバーを外せないのが残念・・・。子供が描いた、植物みたい。
森田さんは、1985年生まれ。本書の紹介文では、”独立研究者”となっている。2020年に、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として京都に立ち上げた「鹿谷庵」を拠点にして、「エコロジカルな転回」以後の言葉と命の可能性を追求している、と。
本書は、数学、数字の話はあまり出てこない。しいていえば、息子が数の概念をもったという場面がでてくるくらい。それよりは、自然、環境、命がテーマ、という感じ。
Amazonの紹介文を引用すると、
”未来はすでに僕を侵食し始めている。未曾有のパンデミック、加速する気候変動……人類の自己破壊的な営みとともに、「日常」は崩壊しつつある。それでも流れを止めない「生命」とその多様な賑わいを、いかに受け容れ、次世代へと繋ごうか。史上最年少で小林秀雄賞を受賞した若き知性が2020年春からの「混沌」と「生まれ変わり」を記録した、四季折々のドキュメント・エッセイ!”
と。
徒然と、つづられる日記のようなエッセイ。
初出「すばる」2020年7月号、11月号、2021年2月号、5月号。単行本化にあたり、大幅に加筆・修正、とのこと。
目次が、季節。
春/STILL
夏/Unheimlich
秋/Pleasure
冬/Alive
再び、春/Play
”僕の一日は、家にいる生き物たちの世話からはじまる。
カワムツ、ヨシノボリ、エビ、オタマジャクシ、サワガ二など、子供たちと近くの川でつかまえてきた生き物たちに餌をやり、トノサマガエル、クワガタ、カミキリムシ、カマキリたちの様子を確認し、必要あれば、水や餌をやったり土を変えたりする。”
と、始まる。
都会の喧騒をわすれた世界で、ゆったりと暮らしていらっしゃるような、そんな様子が目に浮かぶ。そして、2020年3月30日の日記から始まる。
最初から最後まで、静かな語り口。
春は、環境に関する話題。ミミズの話。ダーウィンの「ミミズと土」が面白そうだ。あのちいさなミミズが、土を作っている。ミミズが、喜んで生きていけるような土をつくりたい、と。そんな素朴な話題から、
「人は、自分だけのために生きて、喜びをえることができない」という。
植物でも、ミミズでも、だれかに喜びを与えることで、人は幸せになれる。
ひとは、自分だけのために生きて幸せになれるほど、強くないから。
うん、なるほど。
そうだね。
夏は、農業と教育に関する話題。
Unheimlichとは、ドイツ語で、「知らない人」とか「不気味」という意味らしい。なぜ、こんな言葉が?と思ったら、環境の私たちが知らない側面、という事が言いたいようだ。フロイトは、「秘匿された、秘密にされた」という意味で使ったという。不気味さとは、親しくないものが侵入してくる怖さではなく、親しく、内密なものが、抑圧されたのちに回帰したとき、人はそれを不気味とかんじるのではないか、と。。。。
昨今の異常気象による、様々な災害。2021年の南九州の球磨川の氾濫。抑圧されていた地球の回帰。猛暑も、豪雨も、人為的な気候変動がなければ、起こらなかった可能性が強いということが、スーパーコンピューターを使って、証明されている。人は、知らない間に、人災をもたらしている。。。。
船橋真俊さんが提唱する、「協生農法」についての考察。ある特定作物のための「生理最適」ではなく、「生態最適」という概念。一種類の作物の生理学的な成長を優先すると、雑草や害虫は栽培の過程で排除されてしまう。それは、「生理最適」。そうではなく、生態最適とは、与えられた自然環境の中で、ある種が他の種との競合・共生において、生育する環境条件の範囲。人間が外部から肥料や農薬をもちこまない農業だそうだ。
たしかに、「環境破壊の最たる要因は農業である」といわれると、、、、そうなのだ。
そして、森田さんは、そのような農業と教育は似ている、という。色々な人と共に育つ。
それでいい。それがいい。
そして、お店の手提げ袋は有料化され、エコバックの中にあふれるプラスチックの総菜やお菓子、、、という矛盾の指摘。シュールすぎる。。。
ほんとに、エコバックもって環境に配慮している気になるのは、危険過ぎる。SDGsのバッジをつけてコンビニ弁当を食べている危うさ・・・。エコバッグを持つことに、SDGsのバッジをつけることで、まるで環境配慮しているような気になるのは、、、危うい。
ちなみに、グローバル環境会議になどに行っても、日本人くらいしかSDGsのバッジなんてつけない。。。
秋は、引っ越しと子供たちの変化。引っ越しをまえに、何かと忙しかった時、長男が幼稚園にいかない!スイッチがはいる。大人だって環境が変わるのはストレスなのだから、まだ自分の世界が小さい子供にとって、環境が変わるというのは、本当の大きな変化で、すこしずつ、これからかわるんだよ、と伝えていく必要があるという話。なるほどな、、、と思う。人は、何かに夢中になったり、気が取られていると、目の前のものが見えなくなる。
「見えないゴリラ」の有名な実験の話が出てくる。行動経済学などでも良く引用される。被験者は短い映像を見せられる。画面にはそれぞれ白と黒のユニフォームのバスケ選手が何人か写っていてパスを回している。被験者は白のユニフォームを着た選手同士が何回パスを回したかを数えるように言われる。よく見ていれば正解することは難しくない。そして被験者が正解を答える。「15回」。「正解!ちなみにゴリラは見えましたか?」と実験者が聞く。被験者の目が点になる。
わたしも、やったことがある。まったく、目に入らなかったゴリラ。画面の右から左にゴリラの着ぐるみを着た人間が通り過ぎるのだ。白いユニフォームとボールに関心がいっていると、まったくゴリラに気が付かない。あとから、映像を見直すと、まさに、まじか!!!という感じで、堂々とゴリラが歩いている。。。。
人は、あるがままを見ていない。見たいものを、関心のあるものだけを見ている。。。
無関心についての無知。
小児科医の熊谷信一郎さんの「依存先の分散としての自立」との論考が引用されている。多様な依存先をもつことこそ「自立」という話。熊谷さんは、小児麻痺のために電動車椅子で生活している。東日本大震災の当日、ビルの5階にいた熊谷さんは、エレベーターが止まると自力で避難できなかった。。。かつ、電動車椅子もバッテリーが無ければ動かない・・・。。そして、「自立」というのは、「何物にも依存していない」のではなく、「一つ一つの依存先への依存度が極小となり、あたかも何物にも依存していない課のような幻想を持てている状態」だと。
かれは、「自立とは、正しく依存先を持つこと」と言っている。まさに。人間は社会的な動物である。
わたしは、彼のこの話を直接聞いたことがある。電動車椅子で颯爽とあらわれ、軽快な口調でハキハキと語る彼の姿は、まさに自立していた。一日当たり、10人近くの人に介護、支援をお願いしているそうだ。一人一人への依存が小さくなるように、できるだけ多くの人に依頼するのだと言っていた。なるほど、そうだ、と思った。
人は、人に頼っていい。
「強い人間」であろうとなんて、しなくていい。。。
「弱さを自覚」しよう。
そして、自分も誰かの依存先になれるよう、自分でできることを頑張る。
スポーツは、障害の疑似体験だ、という話が面白かった。サッカーは手が使えない。ラグビーは、前にボールをパスできない。なるほど。また、人間がスポーツをするために、人間以外の生き物がいない空間を無理やり作っている、と。
陸上の競技場は、カエルは住めない。木は自由に生えることが出来ない。。。。
そうか、スポーツですら、自然から自由を奪っているのだ、、、、。まさかの視点。
自然を壊さず、人間が活動できることって、あるのだろうか???と思ってしまう。
冬、生きているということ。
春に向けて、エネルギーを蓄える時間は、自然にも、人間にも必要だ。
再びの春。
人間は、かつて自然から様々なものをもらい、拾って生きてきた。いまじゃ、国立公園も近所の公園も、、かってに草木を取っても怒られる、、、、。
もっと、自由に拾えていいのでは?誰かのモノって、誰が決めたの??
本書の中で、一番印象的な一文。
「知識や学問だって本当は、圧倒的に潤沢な富として、もっと自由に拾ったりもらったり出来るものであってもいいはずである。老若男女が集い、思わぬ来客が行きかう未来の学び舎は、拾うことと貰う事の事由にあふれた場所にしたいと思う。」
あぁ、激しく共感。
静かに語り掛けてくる一冊だった。
気持ちが静かになる。
何冊か、面白そうな本が出てきた。
ダーウィンの「ミミズと土」、ミミズの活躍。
リチャード・パワーズ「The Overstorys」、地球温暖化に伴う森林の危機
志賀直哉「城の崎にて」、”生きているのと死んでいるのとそれほど差はない”、、という一文。
いずれ、読んでみようとおもう。
なんか、静かな本だったなぁ。
自然の中で読んだら、もっと、静かな気持ちになったかもしれない。
地球の破壊者ではなく、共存者でいたいものだ。
自分にできることは、自分でやろう。
人に頼ることは、人に頼ろう。
静かにそんなことを思った一冊だった。
読書は楽しい。