金閣寺
三島由紀夫
新潮文庫
昭和35年9月25日発行
令和2年5月25日143刷
令和2年11月1日新版発行
令和2年11月30日2刷
どれだけ売れたんだ!という刷数。
先日、知人との会話に出てきて、むかーし読んだと思うのだけれどあまり覚えていなかったので、図書館で借りて読んだ。
借りたのは、新版。
裏表紙には、
「『美は・・・・美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ』。吃音と醜い外貌に悩む学僧・溝口にとって金閣は世界を超脱した美そのものだった。ならばなぜ、彼は憧れを焼いたのか? 現実の金閣放火事件に材を取り、31歳の三島が自らの内面全てを託した不朽の名作。血と炎のイメージで描く〈現象の否定とイデアの肯定〉
三島文学を貫く最大の原理がここにある。
金閣を焼かなければならぬ。
破滅に至る青年の告白。
最も読まれている三島作品。国際的評価も高い。映画・舞台化数。」
三島の年譜も含めると383ページの文庫本。
読み応えがある。
やっぱり、三島文学。
テンポがいい。
読みやすい。
文章に余計な装飾がなく、でも、情景がまざまざと目に浮かぶ。
主人公の心の動き、葛藤、文字にしてしまうと恐ろしいまでのまっすぐな感情。
暴力的であり、破滅的であり、それでもそこに愛もあり。
本作は、実際に1950(昭和25)年7月2日に起きた放火事件をもとにしている。午前3時前、鹿苑寺(通称:金閣寺)庭園内の国宝・舎利殿(金閣)から出火し、全焼。犯人は当時21歳の金閣寺の従弟僧。放火の後自殺を図るが死にきれず、逮捕されている。
当時の金閣寺は、明治時代になって修復されたもので、金箔の剥げ落ちた簡素な風情であったという。放火で焼失した5年後、現在のように金色に光る豪華な金閣寺が再建された。
わたしが中学校の修学旅行で行った金閣寺は、今の金ぴか金閣寺だった。あの頃は、放火事件があって建て替えられたなんて、、、説明されたのかもしれないけど、知らなかった。
今回、改めて、あぁ、こういう話だったか、、、と、色々と思った。
三島のノートには、「主題 美への嫉妬/絶対的なものへの嫉妬」とあったそうだ。実際の犯行動機は、厭世感情や色々なものと言われているが、本人が吃音もちで、病弱であったこと、拝観にくる人たちへの嫉妬などがあったようだ。親からの過度の期待、僧侶より財務管理をしている事務方権限の肥大、犯人が卑屈になる要因は、現代とあまりかわらない物があったのかもしれない。
以下ネタばれあり。
主人公は、地方の寺の息子、溝口。吃音もちで学校でイジメられている。僧門にはいれば吃音でいじめられることもなく、親の寺を継ぐつもりで僧門に入る。病気で自分の時間があまり残されていないことを悟った父親は、息子を僧侶仲間の金閣寺・田山道詮和尚にたくす。
父の死後、溝口は遺言通り金閣寺の徒弟となり、得度する。17歳、京都で終戦を迎える設定になっているので、15,6歳で、母親から離れて金閣寺に行ったことになる。
溝口は、金閣寺で修行をしながら、大谷大学(実際の事件で犯人が通っていた仏門も学べる大学)に通わせてもらえることになる。同じ修行僧の鶴川は、溝口の吃音を気にすることもなく、素直に仲良くできる友達だった。
ずっと、吃音でいじめられてきた溝口は、なぜ自分の吃音のことを笑ったり、指摘したりしないのか?と鶴川に訊く。
「だって、僕は、どもりなんてきにならない」ただ、そういった鶴川とは、仲良しになる。
鶴川と二人で金閣寺から大学に通うようになって、いつも二人でいると友達の輪がひろがらないから、と意図してそれぞれに友達を作ろうとする。
溝口が近づいたのは、柏木という先天性内飜足(足と足首の形や位置がねじれる異常)の男だった。
「ちょっと今の講義でわからんところを、教えてもらおうと思って」と、一人で昼食をとっていた柏木に話しかける溝口。
「カタワ同士で友達になろうっていうのか」と答える柏木。
柏木は、かなり根性のねじれた人物として描かれている。
鶴川は、溝口が柏木と親しくすることをあまり快く思っていなかった。それくらい、柏木はねじれた人物だった。
そのことを友情からなんとなく溝口に忠告してきた鶴川に対して、溝口は、
「鶴川なら良い友人も得られようが、わたしには柏木が相当のところだ」といった風なことをいう。
「そのとき鶴川の目に浮かんだ、言うに言われぬ悲しみの色を、のちのち私は、どんなに激しい悔恨を以て思い起したかしれない。」と続く。
鶴川は、後に、事故で突然亡くなってしまう。
また、更に後に、柏木から鶴川の手紙をみせられ、あれは自殺だったのだと聞かされた溝口は、悲しみに暮れる。
まさか、自分が一番の親友と思っていた鶴川が、自分ではなく柏木に打ち明け手紙を送っていたとは、、、。
金閣寺の老師、田山道詮和尚は、恩人であるのだが、溝口は心の底から尊敬、信頼していない。街に出れば女を買うし、溝口の目には俗人に見えた。
そんな風に思いながら金閣寺で過ごしていた冬のある早朝、開寺前に拝観に訪れたアメリカ人と日本人娼婦。英語がはなせるからということで、溝口が対応するように言われる。
酔っ払いの二人。どうやらアメリカ人は、しつこくついてくる女と別れたいらしい。雪で足を滑らせて転んだ女を起こそうともしない男。そして、溝口に、こいつの腹を踏めと、拳銃で脅す。
溝口は、言われるままに女の腹をける。
こんなひどいことしていいのか?
いいわけない。
僧侶の道に反している。
でも、しないと、自分が殺されるかも。。。
女のやわらか腹を踏んでいるうちに、なんとなく、人をいじめるということに、気持ちよい気がしてくる溝口。
アメリカ人は、弱り切った女を抱えて、帰っていく。溝口に拝観料だと言って口止め料なのか、お金を渡そうとするが、溝口がそれを拒む。すると、煙草を2カートン持たせて去っていった。
溝口は、煙草を煙草好きな老師に渡す。ご苦労さん、とだけいう老師。
女の腹を蹴ったことは、誰にも見られていないはず・・・・。
後日、女が寺に訪ねてきて、ここの坊主に腹を蹴られたせいで流産した。慰謝料よこせ、と。
溝口が女の腹をけった現場は、誰も見ていないはずとおもいつつ、でも、対応したのは溝口であることを老師は知っている。しかし、溝口にそんなことをしたのかを訪ねることもなく、女に金を渡して帰らせる。
溝口自身に落ち度のある行為についても、特にとがめることのない老師。叱ってくれた方が気が楽なのに、叱らない。知っているのか、知らないのか。自分にもやましいところがあるから叱らないのか。自ら老師に懺悔してしまえばいいものも、それもできない溝口。
溝口の自分勝手な想いから、次第に老師の期待に答えることがバカバカしくなってくる溝口。
イライラの対象は、自分とは違って、美しい金閣寺になっていく。
美への嫉妬。
そして、放火へ・・・。
小説は、放火した後、溝口が裏山に逃げ込むところで終わる。ポケットには、カルモチン(睡眠薬)と小刀。自殺をするつもりの。。。
金閣寺が、美への妬みの対象となっているが、実は小説には美しい女が何人か出てくる。その誰にも、溝口は相手にされない。金閣寺への放火によって、あらゆるものを破壊へ導きたかった、そんな歪んだ心の現れという事なのかもしれない。
なんとも、人間の拗ねた根性というのか、自己卑下から自分以外の物への妬み。
三島が金閣寺を描いたのは、1956年。31歳の時。
すごい、筆力というのか。
やっぱり、三島文学は、濃い。
金閣寺放火に至るまでの溝口の心の動きが、どんどんひずんでいく心の動きが、興味深い。その中にあって、鶴川に放った、
「鶴川なら良い友人も得られようが、わたしには柏木が相当のところだ」
という、一言。
わたしには、このくだりが、ひどく頭に残った。
なんて、人間のいやらしいところだろう。
そして、そのまま文字にする三島の直球。
そう感じる私が、吃音もち、内はん足というものに、なんらかの偏見を持っているからだ。少なくとも、自分は吃音でなくてよかった、脚に障害が無くてよかった、と思っている。
嫉妬心とか、不寛容さとか、普段は人に悟られまえとする心のうちを、むき出しで表現されると、ドキリとしつつ、これは小説の中の話であると安心しつつ、、、心をわしづかみにされるような感じがする。
わたしの中にはそんな歪んだ思いはない、と否定したくなる気持ちと、わたしだって嫉妬するし、誰かにとがめられるようなことを思ったことがないわけではない。。。
誰かの悪事を、見て見ぬふりをするのだって、後味の悪い経験。。。
小説というのも、色々と考えさせられるものだ。
活字はすごい。
ペンの力のすごさ。
ま、ペンはパソコンに置き換わっているかもしれないけど。
文字化することのすごさ。
う~~ん、やっぱり読書は楽しい。
ちなみに、本書の装丁は、速水御舟(はやみ・ぎょしゅう)「炎舞」の部分。重要文化財、山種美術館所蔵、だそうだ。
装丁、新書にはない楽しみ。
芸術だ。
金閣寺を訪れたいという気持ちより、山種美術館にいって日本画にどっぷりつかりたくなった。
読書は色々楽しい。