禅の言葉  『本来無一物(ほんらいむいちぶつ) 無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)』

今朝教えていただいた、禅の言葉

前にもおしえていただいた、基本の言葉。


『本来無一物(ほんらいむいちぶつ) 無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)』

 

坐禅は、ボケっと座っていないで、一心不乱に心を込めて無になり切るという事が坐禅の基本。についての公案

『無地』という公案、最初の公案と言われる。

 

本来無一物(ほんらいむいちぶつ) 無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)

六祖慧能(釈迦より34代目)が言った言葉。 
達磨さんから数えて6代目、釈迦から34代目のエリートではない人。3Kで働いている人。道場でいえば、お米ばかりついているような人。そんな六祖も、皆と一緒に坐禅をしていた。

ある時、前代のご祖が、次の後継者を決めるために、弟子たちにをもとめた。
そして、弟子の詩を廊下に貼りだした。

 

その道場で筆頭の弟子(エリート弟子)の詩が
 神秀上座(じんしゅうじょうざ)の偈

『身はこれ菩提樹
心は明鏡 台の如し、
時々に勤めて払拭し、
塵埃を惹かしむること莫れ(なかれ)』

(意味)
自分の身体は、菩提樹そのものになっている。心は鏡のようにすんでいる。鏡にホコリが付かないように、常時ホコリをとりはらおう。

 

みんなが、これを褒めた。

その後、エリートではない六祖慧能の詩が貼られた。

 

六祖慧能の偈
『菩提、本(も)と樹無し、
明鏡も亦 台に非ず、
本来無一物、何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん』

(意味)
心は無だから、何もない。何もないけれど、すべてものが入っている。
ホコリを取り払うとか、そんなつまらないことは、ない。


そして、六祖慧能が後継者に決まった


『無』が一番の基本、ということ。

 

一心不乱に無になるって、私にはまだよくわからない。
私は、ボケーーっと坐っているか、雑念が色々めぐっているか、、、、。
つい、目に入る景色をじっと見入ってしまったり。。
この後、何を食べよう、って思ったり。。。

『無』って、難しい。
頭の中のおしゃべりを止めるって、難しい。
よくわからないけど、まぁ、とりあえず機会があるかぎり坐禅を続けてみよう。
とりあえず何も考えずに、じっと坐っている時間なんて、意識しないと取れない。
一応、ボケーーっとなりに、心穏やかな時間にはなれるし。。。


そして、今日は、禅の歴史についても、教えていただいた。


禅は、ギリシャからきている。

 

インド禅:インドの時代、紀元前5世紀~紀元5世紀。約1000年お釈迦様から達磨まで28代の弟子。

 

中国禅達磨が中国に来て始まる。達磨から臨済義玄まで約900年臨済が中国の中で27代目。さらには、天童如浄(てんどう にょじょう)。

 

日本禅鎌倉時代臨済から日本に伝わる。大応国師(だいおうこくし)・大灯国師(だいとうこくし)・関山慧玄(かんざんえげん)の三人が、応灯関といって、日本の禅のもとになっている。また、中国の天童如浄(てんどう にょじょう)から、道元に伝わる。
応灯関の流れから、白隠が中興の祖となって、現代までつながっている。

日本禅のなかで27内代目の定光さんが、在家禅をすすめて、今朝の坐禅会の流れになっている。現在は、釈迦から数えて85代目の山本さんという方が日本の在家禅釈迦牟尼会を代表しているらしい。

 

今では、アメリカ、ヨーロッパへと広がっている。
スティーブ・ジョブズが禅をやっていたのも有名な話。

禅は、色々と変わってきているけれど、世界に広がっているということ。

 

『無』になるって、まだわからないけれど、心穏やかな時間であるのは間違いない。

 

プーチンさんも、柔道もいいけど、禅でもしたらどうかね、、、
なんて、人に薦めるものではないけどね。

 

こうして、平和にのんびり家で坐禅をくめるのも、インターネットという技術のおかげ。テクノロジーは、平和目的でなければならない。どう使うかは、人間次第。

 

時々、無になって、考えよう。

『我々はどこから来たのか  我々は何者か  我々はどこへ行くのか』

  D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?

 

どこへ行くかをきめているのは、人間だ。