禅の言葉  人従橋上過 橋流水不流

今朝教えていいただいた、禅の言葉

 

人従橋上過 橋流水不流

(ひときょうじょうよりすぎれば はしはながれみずはながれず)

 

坐禅のポイントは、心を整えるだけ。
心を整える、それがすべての基本。

人は、なにか寄るべきものを求めている。
頼るところを求めている。
よく整えられた心こそ、真の寄る辺であり、これ以外の真はない。
坐禅の時、すべて無心になるということ。

完全に無心になるということが、すべての基本。

 

坐禅というのは、僧侶の独占物ではない。普通の人も坐禅をする。
その例が、中国の在家の傅大士(ふだいし)(497ー569)という人。普通の社会人。
釈迦の時代、禅の師匠以上の境地に達した人。


その人も、基本は、心を整えるだけ、と言っている。

その言葉が、今日の言葉。

 

人(ひと)橋上(きょうじょう)従(よ)り過ぎれば、橋は流れて水は流れず

 

ざわざわと流れる谷川の水の音が聞こえ、橋の上からその流れをじっと見つめていると、いつの間にか自分がその自然の中に溶け込んでしまい、自分が川の流れになって流れているようで、我と流れが一体になって自分が橋と共に流れていると感じる。無の境地は、大自然と一体となった無心のこころ・・・
坐禅で心を整えると、大自然と一体になる。
大自然と心が一体となるという事は、小さな自分から大きな自分になる。
小さな自分は、自分と他を区別すること。
大きな自分は、自分と他を区別しない。
大きな自分に気付き、小さな自分が無くなる・・・

 

人従橋上過 橋流水不流

 

なるほど。確かに、じーーーっと橋の上から水の流れを見ていると、水が流れているのか自分が流れているのか、わからなくなる。

新幹線が駅で止まっているとき、隣の新幹線が動き出すと、自分が動いているのか、向こうの電車が動いているのか、一瞬分からなくなる、、、と、似てる!?!?

 

水と一体化するほど、最後に水の流れを見つめたのはいつだろう・・・。

 

坐禅をしていても、無心になれと言われると、なかなか慣れない。

無心、無心、と思っているから、無心になれない。。。

無心を考えている自分になってしまう。

でも、時々、お堂の畳の上で坐禅をしていると、畳の目がだんだん海の底のように見えてくることがある。深さがわからない水の底みたいな感じ。

 

坐禅は瞑想と違って目をつぶらない。

それだけに、目に入ってくるもので、無心になりやすいものとか、あるのかもしれない。なんておもったりして、、、。まだまだ素人。

 

自然の中だと、無心になれるのだけどな。

どっぷり、自然につかりたい。

 

本当は、今週末は国内旅行に行くつもりだった。

オミクロンのせいで、大事を取って中止に。

遠くには行けないけれど、近場の自然にひたってみよう。。

 

近くの川にいってみよう。

今日は、天気もいいし、お散歩日和。

 

自分の寄るところが、自分の心に見つからないから、無心になれないのか。

無心になれないから、自分の寄るところがみつからないのか。。。

あれこれ考えずに、まずは、無心になって散歩してみよう。