豊饒の海(四)天人五衰
三島由紀夫
新潮文庫
昭和52年11月30日発行
平成15年4月25日36刷解版
平成15年9月30日37刷
(この作品は昭和46年2月新潮社より刊行された)
豊饒の海、最終章の第四巻。本多は、76歳になっている。
19歳から始まって、76歳まで、、。
三島由紀夫は、最初からこういう構想で書き始めたのだろうか???
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』よりは短いけれど、、なんて長いストーリー。
裏表紙の説明には、
「妻を亡くした老残の本多繁邦は清水港に赴き、そこで帝国信号通信社に勤める16歳の少年安永徹に出会った。彼の左の脇腹には、三つのほくろが昴の星のようにはっきりと象嵌されていた。転生の神秘に取り憑かれた本多は、さっそく月光姫(ジン・ジャン)の転生を賭けて彼を養子に迎え、教育を始める・・・。存在の無残な虚構の前で逆転する〈輪廻〉の本質を劇的に描くライフワーク豊饒の海、完結編。」
感想、え~~~?!どういうこと???
豊饒の海、第四巻にて完結するのだが、、、まさに、「虚」で、終わる、という感じ。
第四巻は、全4巻のなかで一番薄い。
第一巻 467ページ
第二巻 505ページ
第三巻 425ページ
第四巻 342ページ
生きることも、死ぬことも、虚構ということか・・・。
以下、ネタバレあり。
第四巻では、本多は76歳で始まる。妻の梨絵は、既に亡くなっていて、ひとり身になっている本多。久松慶子との友人としての付き合いは続いていて、彼女は67歳になっている。当時の76歳と67歳だから、完全に引退した高齢者、、という感じだろう。でも、資産はいやというほど持っている。
本多は、旅先でたまたま訪れた静岡の海で、外海からやってくる船に信号を送る仕事をしている一人の青年、安永徹を清顕の生まれ変わりと見定める。16歳の孤児だった。
慶子と興味半分で訪れてみた通信社で、信号を送る仕事をしている徹に出会う。徹は、毎日、一人で仕事をしている。その職場を度々訪れてくるのは、過去に醜さゆえに男に捨てられて気がふれた女、絹江。徹は、醜いその女を特に遠ざけることもなく、過ごしていた。
本多は、徹を自分の養子にしようとして、徹の身辺を興信所を使って調べさせる。もともと、頭はよい。早くに両親を亡くしたことで、学校へ行く機会を失っただけだった。
徹は、60歳も年上のこの先長くもなさそうな老人の申し出を受け、養子となり、学校へ行かせてもらう。
徹は、心のどこかで老人である本多のことを蔑んでいる。いつか、この人に大きな後悔をさせてやる、、、そんな邪な思いを胸に秘めている。勉強させてもらい、金銭面では何不自由なく暮らしているのに。自分を自分の理想に仕立てようとする本多の行動が煩わしいという事だろう。本多にそんな、そぶりは見せないのだが。
そして、本多があつらえた嫁候補を、仲睦まじいと見せながらも裏切る計画を立てる。他の女を利用して、その娘から離別を申し入れたかのように装って、破局を迎える。
そのうち、徹は本多に対して、悪態をつくようになる。
「年寄りなんか穢い、臭いからあっちに行け」
怒鳴るのではなく、微笑をにじませて、美しい無垢な目でじっと本多をみていう徹。
徹は、4年間本多と一緒にくらして、つくづく本多を嫌いになっている。
そして、絹江を呼びつけ、一緒に暮らすようになる。
そして、ある時、本多が留守中に徹が庭の百日紅(さるすべり)を勝手に切ってしまったことで、いよいよ二人の諍いが激しくなる。
「あの木はもう年寄りになったから、いらないんだ」
徹のその言葉は、年寄りの本多はいらない、と言っているようなものだった。
本多は、徹が清顕の生まれ変わりなら21歳までに死ぬはず、、、だから、もう少しの辛抱だ、、、きっと死ぬんだ、徹は、、と思っている。もしも、偽物だったら死なない、、、そしたら、、、。本多は自分自身の体の不調も感じ始める。80歳だ。
そんな時、覗き魔の悪癖に任せて、本多は公園で覗きをしていた時に事件に巻き込まれて、「元裁判官の80歳の覗き屋」と新聞に書き立てられる。名誉もなくした80歳の老獪となった本多。それでもまだ生きている。
慶子は、徹を家のパーティーに招待する。パーティーと言ったが、実は徹一人を招いていた。そこで、「本多があなたを養子にしたのは、脇に三つ並んだほくろのためだ」と話す。
徹の才能をかったから養子にしたのではない、あなたが20歳で自殺すると思っているから養子にしたのだ、と。徹が思っているほど、徹は才能にたけているわけではない、一人のつまらない人間に過ぎない、、というようなことをとうとうと言って聞かせる。
徹は、怒りなのか、憎しみなのか、悲しみなのか、分からない感情に駆られる。
徹は、珍しく本多に対して下手に出て、慶子から聞かされた清顕の「夢日記」を本多から借りる。借りて、一週間ほどの後、徹は自殺した。
自殺未遂だった。
工業用メタノールを飲んで自殺を図ったのだが、失ったのは命ではなく、視力だった。
盲目になった徹は大学をやめ、絹江とだけ過ごすようになる。
絹江は、懐妊する。
本多は、遺産はすべて徹にいくようにと遺言を作る。
そして、いよいよ体調がすぐれなくなってきた。膵臓嚢腫だった。
本多は、奈良の月修院へ聡子を訪ねる決心をする。清顕の葬式にも来なかった聡子。でも、死ぬ前に聡子にあわねば、、、、。そう思って、衰弱した身体で奈良を訪れる。
蝉の声が充ちている月修院の客間で、一人、門跡である聡子を待つ本多。
白衣に濃紫の被布を着て、青やかな頭をした老尼が現れた。83歳になる聡子だった。
予め、清顕とのことを手紙でしたためておいた本多は、「お懐かしゅうございます」と挨拶する。
が、聡子は、松枝清顕などという人は、知らない、という。
せっかくお越しいただいたので、庭を案内しましょう、、と。
”庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。”
THE END
え~???
という感じ。
生まれ変わりの話も、なにもかも、虚構ということか。
徹も、端正な美しい顔立ちで、頭のよい青年として描かれている。
若者の美しさ、老人の醜さ、女のしたたかさ、、、
いろんなものが入り混じっているのだけれど、それが真なのか偽なのか、それも記憶から消えてしまえば、何の意味もないこと、という事が言いたいのか。
「天人五衰」とは、仏教用語だそうだ。
天人とは、天界の神々。五衰とは、天人が命尽きようとする時に現れるという5種の衰亡の相。涅槃経によると
1)衣服垢穢(いふくくえ):衣服が垢(あか)で汚れる
2)頭上華萎(ずじょうけい):頭にかぶっている華(はな)の冠がしおれる
3)身体臭穢(しゅうえ):身体が臭くなる
4)腋下汗流(えきけかんる):腋(わき)の下から汗が流れる
5)不楽本座(ふらくほんざ):自らの位置を楽しまなくなる
作品のなかに、それぞれの描写がある。ほとんどが本多に関する描写だが、頭に華を乗せているのは徹と絹江。自らの位置を楽しまなくなっているのは、年老いた本多や慶子より、徹かもしれない。
死は、徹が家庭教師から聞かされる、「自分を猫だと信じている鼠」の話でも、強調されている。猫に、お前なんか鼠だ、猫の証拠があるならみせてみろ、と言われて、自ら回っている洗濯機の中に飛び込んで死んでしまう鼠の話、、、。
己の正義を証明するために、死んでしまう鼠。のこったのは、ただの死骸・・・・。猫は、その鼠の屍はそのままにして立ち去る。食えたもんじゃなかったから、、、。
自己正当化のための死。
そんな物騒なはなしが挿入されている。
命尽きようとしているときの様子が、タイトルとは、、、。
読み終わって、なんだか脱力してしまう話だった。
もういいか、、、そんな気持ちになって、三島は死んでしまったのかもしれない。
あるいは、老いへの恐怖か。
人はだれでも、年を取る。
年を取れば、できていたことが出来なくなることもある。
それをみっともないと思うのか、
そもそも、人間とはそうものだと思うのか。
「そういうもの」、でいいのではないかと思う。
完璧である必要なんてない。
だいたい、人間なんて、そんなに、格好のいいもんじゃない。
環境も汚すし、人を傷付けることもある。
でも、それでもいいのではないかと思う。
恰好悪くなってきたなりに、年を取ったなりに、楽しめばいい。
自分なりにできることをして、自分なりに楽しめばいい。
ひとに迷惑をかけない??
いいんじゃないの、かけても。
何を迷惑というのかわからないけれど、人は人に依存して生きている。
お互い様。
お世話になって、ありがとう、って感謝すればいい。
やっていいことか、やってはいけないことか、自分の頭で考える。
ただ一つ、命を奪う事だけはしてはいけない。
他人の命も、自分の命も。
誰かにとっての善は、誰かにとっての悪かもしれない。
あんまり、深く考えず、まずは、自分ができることを一生懸命やろう。
と、思う。
私は、三島のように死んだりしない。
と、そんなことをおもった『豊饒の海』シリーズでした。