今日教えていただいた、禅の言葉
「空手把鋤頭 歩行騎水牛」
「空手(くうしゅ)にして鋤頭(じょとう)を把(と)り、歩行して水牛に騎(の)る」
傅大士(ふだいし)(497ー569)の「法身(ほっしん)の偈(げ)」
手をわすれて(無心になって)鋤を使って畑仕事をし、水牛に騎ったようにゆったりと(無心で)歩いて家に帰る。
物事に固執しないで、全体で感じて、心を開いてすべてのことにあたろう、ということ。
手にとらわれていると、仕事などもなかなかうまくいかない。
畑仕事は、もちろん手を使うことではあるけれど、手を忘れて仕事をする。
うちに帰るときには、ゆったりと心を開いて、水牛に乗っているときと同じくらい、ゆったりと、心を開いて歩いて帰ろう。
そうね、そうだね、、と思う。
「放心」の大切さ。執着しないことの大切さのお話。
他にも、道元禅師(どうげんぜんじ)の言葉で、
『放てば手にみてり』
というものがある。
世界的に有名になっている言葉で、英語にもなっている。
When you let it go, it fills your hands.
手から放れたとき、大切なものは自然に手に満ちてくる。
欲や執着を放したときにしか分からないことがあるということ。
もう一つ、
江戸時代の剣術師、柳生宗徳に対して、沢庵禅師が「放心」こころを放つことの大切さを表したことがある。放心の反対は、執心。
剣道で相対するときに、手に心をおくと、手にこだわってしまう。相手の目に心をおくと、そこに執心してしまう。剣道で相手に対するときには、相手全体をぼやぁっと見て、心を放て、ということを言っている。
執心せず、放心することで、日々の生活が自由自在になる、と。
今日の「空手にして鋤頭(じょとう)を把り、歩行して水牛に騎(の)る」は、先日の
「人橋上従(よ)り過ぎれば、橋は流れて水は流れず」と対の句。
「口を使わず(舌を動かさず)、噺(はなし)をしてみよ」
お前の落語は、口を使いすぎて面白くない。噺をしろ、と。
むちゃな、公案だとおもうけれど、そうしているうちに、円朝の落語は面白くなった、と。
執着しないことが大事だと、色々な人が色々な言葉で言っている。
それはそうなんだろうと思う。
問題は、自分が執着していることに気が付かないことではないだろうか。。。
あとから振り返ってみて、なんであんな事に執着していたのだろう、、、と思う経験は誰しにもあるのではないだろうか。
物事がなんだかうまくいかないな、って感じたときは、なにかに執着していないか自分を振り返ってみるといいのかもしれない。
不幸は執着から来る気がする。
自分で勝手に執着して、勝手に文句をいっていたり。
ちょっと話はとぶけれど、私は「幸福度ランキング」といったものにすごく違和感を感じる。幸福は主観的なものなのだから、くらべても仕方がないでしょう、、、と。
ランキングすることで、競争を煽るような感じも、「幸福度」にふさわしくないような気がする。
と、今朝、とあるところで「幸福度ランキング」がでていて、思ったのだった。
人の幸せを、かってにランキングするな、と思う。
ランキングなんかに執着するな。
よけいなお世話だ。
と、思うこと自体、私が幸福ということに執着しているのかもしれない。
ま、、、いっか。
心を放とう。
明後日は、春分の日。
春だ、軽やかにいこう。