今朝教えていただいた、禅の言葉。
胡来胡現:漢来漢現
胡来れば胡現ず : 漢来れば漢現ず
こきたればこげんず:かんきたればかんげんず
『正法眼蔵』「古鏡」の巻 の言葉。
胡というのは、胡人。ウイグル、モンゴル、トルコ系など中国から見て西の人。中国から見れば、自分たちの土地にやってくる異邦人。
漢というのは、漢人。中国の人。
春秋時代などは、漢人と胡人で、政権が交代したり、三つの国を作ったり、南北で国を分けたりした。
古鏡は、胡人がくれば、胡人を映す。漢人がくれば、漢人を映す。
ただ、さっと姿を映すのであって、鏡は何も考えない。
そのままの姿が映る。
そこに、むさくるしいとか、野蛮だとか、賢いとか、そんなものは映らない。
鏡は、分別をはたらかせない。
ただ、そのままの姿を映す。
それは、坐禅の正念。
頭は働かせない。
全身で、鏡のように起こった現象をぱっと受け止める。
そのまま。
それが、理想的な心の状態。
本来の自己とつながる。
「古鏡」が、祖仏が具有する「無分別智」を象徴する。
坐禅をすることは、「本来の自己」である古鏡を磨くため、ということ。
胡人をウクライナとして、漢人をロシアとして考えれば、まさに、、、そういうことになる、ということをおっしゃった。
ただ、ダイバーシティである、と。
あるがままにそれを受け止める。
それが歪んでしまってはならない。
坐禅は、本来の自己である古鏡を磨くため、と。
さて、私の古鏡は、歪んでしまっていないだろうか。
ウクライナとロシアの例をされたので、うむむむ、と思ってしまった。
私は、モスクワに知人がいる。一緒に仕事をしてきた仲間がいる。
彼等は、今、どういう気持ちでいるのだろう?と思う。
一方で、ウクライナには知人はいない。
どう考えても、ウクライナ人が被害者に見える。
報道をみれば、ロシア兵も理由もわからずにウクライナに行けと言われてきた、という兵士もいる。
だれもが、被害者だ。
銀座に、「赤の広場」という名の、ロシアの食品を売っているお店がある。実際に経営されているのはウクライナ人なのだが。数週間前、そこが誰かに襲撃された、というニュースがネットで流れていた。
お店の人は何も悪くないのに。。。
心が痛いニュースだ。
あっては、ならない。
暴力は、やっぱり、どんな理由があっても駄目だと思う。
アカデミー賞授賞式で俳優のウィル・スミスがプレゼンターを平手打ちしたのだって、やっぱり、私はダメだと思う。暴力を使ってはいけない。どんな理由であれ、暴力を行使してしまったら悪なのだと思う。奥さんを守りたいなら、他に方法があったはずだ。
暴力は、何も解決しない。
小学校の修学旅行で、夜遅くまで騒いでいたら、先生に殴られたことがある。昭和の時代の話だ。今なら大問題だろう。。。
「殴ったら、殴った自分の手も痛い」と、先生が言った。
それでも、殴られた時、自分が悪いことをしたというより、先生が悪い、、、と思った。
やっぱり、私は、暴力は嫌いだ。
戦争も嫌いだ。
戦争は、だれも勝者にしない。
本当にそう思う。
ロシアへの経済的制裁は、一般のロシア人の生活をも脅かす。
ロシアと商売をしていた日本人にも、影響を及ぼす。
人間の性善説を信じたい。
だから、誰がうつっても、そのままの姿を、ただそのままの姿を映せる自分の中の古鏡を、持ちたいと思う。
自分の中の鏡を磨けるのは、自分しかいない。
毎日、色々なことが起きる。
鏡は、曇ったり、歪んだりする。
時々、無になって、古鏡をいたわろう。