『日本語教のすすめ』 by  鈴木孝夫

日本語教のすすめ
鈴木孝夫
新潮新書
2009年10月20日発行

 

とあるところで日本の文化と日本語の関係の話をしていた時に話題に出てきた本。図書館で借りてみた。

 

感想、結構面白かった。

雑学的にも面白いし、言語学としても面白い。

リベラルアーツの一つだな、、なんて思いながら楽しく読んだ。

 

世界中に日本語の読める人を作ろう、という著者の発想は極端といえば極端だが、日本語を大切にするべきだと言う主張の骨子には共感する。やはり言葉と文化は強く結びついていると思うし、普段日本語を使っていると気づかない日本語の恩恵を、こうして書籍にまとめてもらえると、なるほどなるほど、と改めて日本語の凄さを感じられた。

 

著者の鈴木さんは、1926年(大正15年)東京生まれ。慶應義塾大学文学部英文科卒。慶應義塾大学名誉教授。専攻は言語社会学。たくさんの著書もあるらしい。


表紙の裏には、
「『日本語は英語に比べて未熟で非論理的な劣等言語である』・・・こんな自虐的な意見に耳を傾けてはいけない。我らが母語、日本語は世界に誇る大言語なのだ。『日本語はテレビ型言語』『人称の本質は何か』『天狗の鼻を”長い”ではなく”高い”と表現する理由』などなど。言語社会学の巨匠が半世紀にわたる研究の成果を惜しげもなく披露。読むほどにその知られざる奥深さ、面白さが詰まってくる究極の日本語講座。」

たしかに、そんな一冊。

鈴木さん自ら、自分が「日本語教」の教祖だけれど、信者はあまり多くないなどと、おちゃめなこともいいながら、真剣に、楽しく、面白く、日本語のすごさを語ってくれている一冊。
252ページの新書で、楽しくあっという間に読める。
日本語の使い方、文章もうまいんだな、、、と、気づかされる。

 

目次
第一章 日本語は誤解されている
一 日本語ってどんな言語
二 漢字の読みはなぜややこしいのか
三 ラジオ型言語とテレビ型言語(1)
四 ラジオ型言語とテレビ型言語(2)

第二章 言葉が違えば文化も変わる
一 虹はいくつの色があるか
二 太陽は世界のどこでも赤いのか
三 蛾とクジラが同じである理由
四 文化によって異なる羞恥心

第三章 言葉に秘められた奥深い世界
一 天狗の鼻は「長い」ではなく「高い」
二 形容詞の中身はなに
三 江戸時代、「日本酒」はなかった

第四章 日本語に人称代名詞は存在しない
一 身内の呼び方の方程式
二 日本語の人称代名詞をめぐる問題
三 指示語と自己中心語のしくみ
四 「人称」の本質は何か

第五章 日本語に対する考えを改めよう
一 日本人の持つ相手不在の外国語観
二 日本語教のすすめ 

 

目次をみただけでも、なになに??どういうこと?という気になる。

 

確かに、歴史的に見ると、19世紀の世界の潮流は西欧絶対主義で、西欧諸国の文化、白人が偉いとされていた。だから、明治開国直後、西欧の文化文明がすごいもので、言葉も含めて西欧にならおうとした、という傾向はあった。で、日本語は言語としては劣っているから使用言語を英語にしよう、なんて発想もでてきたらしい。でも、著者は、日本語は優れた言語である、ということの理由をいくつも提示してくれる。
読んでいるとなるほど、ふむふむ、と思ってしまう。

 

一例として、複数形の話。
英語では、複数になると名詞のうしろに、”s”がつく。しかも、動詞も変わる。日本語には複数というのが言葉の上では明示されない。子供、子供達、という言い方はあるにしても、桜、桜達、とは言わない。
日本語(他にもトルコ語朝鮮語、蒙古語なども)は、数の概念を明示する必要のある時は、それを表す言葉(数詞、形容詞など)を名詞の前に置く

”二羽の雀”
”沢山の花”
”多くの人”

など。

日本人にとっては、”沢山の”といわれれば、次に来るのは複数のことであるのは自明
だから、
”沢山の花々が咲き咲きましたました”などと、いちいち複数概念を繰り返さない。

でも、多くのヨーロッパの言語は、
”沢山の花々が咲き咲きましたました”
ということをやっている、と。

確かに。
名詞も、動詞も複数になると変化する。

A flower blooms.
Many flowers bloom.

めんどくさい。
英語の先生にしょっちゅう指摘される。複数のs、動詞のs、必ず聞こえるように発音しなさい、と。

日本語なら、
”花が咲く”
”沢山の花が咲く”

沢山、とつければいいだけだ。

まぁ、どっちが進化しているかといのは、わからないけれど、著者曰く、日本語の方が素晴らしい、、、と。

 

私も、日本語を母国語としているので、日本語は素晴らしい、という説をとうとうとかたられると、なるほどそうだようね、、、と、ついつい、共感してしまう。
日本が素晴らし、とか、日本文化は素晴らしい、という漠然とした主張ではなく、日本語、というものそのもののよさを、きちんと「なぜならば」と説明しようとしているので、好感がもてる、って感じ。

 

漢字だってそうだ。
漢字は、音読みと訓読みがあるからややこしい。梅棹忠夫文化人類学者)ですら、面倒な漢字の追放がムリなら、漢字は音読みだけにすればいい、などと主張していたらしい。

え?あの梅棹さんですら??と思った、梅棹さんの著書は、これ。

megureca.hatenablog.com

 

でも、音読みと訓読みがあるから、意味と音と両方をあらわすことができる。
「エンジン」、と音だけ聞いてもわからない。
でも、
「猿人」、と書かれているものを見ると、猿(サル)+人(ヒト)と、意味が分かる。

エンジンなら、4文字だけど、猿人なら2文字。

日本語は、漢字があるから、文字数が少なくてすむ。
日本語でできた文書を英語に翻訳してみると、よくわかる。なんて文字数がふえるんだ!!と。

日本語のパワーポイン資料を、英語に訳すとよくわかる。どんだけフォントちっちゃくしないと収まらないのよ!って。
つまりは、一つの単語を表現するのに、表音文字だから長くならざるを得ない。
漢字なら、文字数がぐっと少なくなる。

 

昨今、オーディオブックというものがあるけれど、私がオーディオブックよりも文字で読むのを好むのは、スピードが全然違うからだ。
歩きながらとか、なにかしながら読むには、オーディオブックはいい。だから、オーディオブックも使うけれど、どんな速い速度で聞いたとしても、目で読む速度にはまったく及ばない。
なぜなら、漢字があるからだ。
やっぱり、漢字がある日本語って、すごいと思う。
読む速度が速くなるというのは、それだけ、情報をインプットするのに時間がかからないということ

ひらがなだけの教科書で勉強するのと、漢字がある教科書で勉強するのと、想像してみればわかる。

私も、日本語は漢字があるから素晴らしい、という意見には賛成
かつ、漢字にはいくつも読み方があってもいいと思う。
語感、ってあるもの。

 

ラジオ型言語とテレビ型言語と言っているのは、音だけの言語か、文字が必須の言語か、ということ。漢字がある日本語は、もちろんテレビ型言語、というわけだ。
テレビとラジオ、どっちが同じ時間で多くの情報を得られるかといえば、画像付きのテレビだろう。

 

面白い引用がでてくる。
むかし、イギリスで初めて蒸気乗合自動車が町中で走り始めた時、客を奪われるのをおそれた馬車屋の組合が、赤旗条例というのを当局にださせて30年間実施させたという。どんな条例かというと、車はブレーキが不完全ですぐには止まれないから、危険な車の来ることを人々に知らせるために赤旗をもった男が、乗合自動車の前を走る、という規則。
笑える。
車が人の走る速度でしか走れなかった、というわけだ。

 

鈴木さんは、ローマ字や仮名表記というのは、表音文字で音声言語を書くということであり、目という素晴らしい情報解読力をもった器官の能力を、耳の能力と同等にしてしまう、というのだ。つまり、赤旗条例になっている、と。
まさに、わたしがオーディオブックより文字で読むことを好む理由がそこにある。
ちなみに、ちゃんとしたオーディオブックではなく、kindleやi-padの読み上げ機能で読む(聞く)と、誤読もある。「筋トレ」は、しばし、「すじとれ」と発音されている、、、、。

 

天狗の鼻のはなしは、日本人が高い、低い、と長い、短い、をどう使い分けているのか、ということで、面白い。
天狗の鼻は、高い。
象の鼻は、長い。

本来、高いというのは、地面に対してそのものの上部がどれくらい離れているか、という問題。であれば、鼻は、地面に対して水平だ・・・。なのに、なぜ、高いというのか?

日本語では、一般にある特定の身体部位が身体から水平方向に突出しているとき、それを形容する言葉は、"”。

”出っ歯”
”出目”
”出べそ”
”出っ尻”

これらは、程度の差はあっても誉め言葉ではない、、、という。出ていない方がいいから、、、なるほど。確かに。
ところが、鼻だけは日本文化では特別扱いだ、という。
鼻は、顔から前に突き出ている度合いが、普通以上であることがむしろ好まれるから。
だから、貶めの含みのある“出”は、使えない
で、鼻だけは、高い低い、が形容するのに使われるようになった、、と。
ふむ、なるほど。
鼻に、高い、低い、という形容をつかうのは、ほぼ日本語だけらしい

 

日本には、昔から高い山、高い樹は信仰の対象で、高い建物を建てた人は権力、威光の象徴だった。だから、高い、ということにプラスの価値観をもち、突出度の高い鼻に肯定的な意味をもつ日本人は、鼻に対して”高い”、という言葉をつかうようになったのではないか、と。

面白い!


寒い、冷たい、の違いの話も面白い。
ある留学生が彼に言った。
「先生、今日はあまりにも暑いから、寒いビールでも飲みましょう」
即座に、「寒いビールではなく、冷たいビール」と指摘したらしいのだが、では、寒いと冷たいはどう違うのか??
鈴木さんにも、学生に「どうちがうのか?」と聞かれてすぐには答えられなかったらしい。

国語辞典でも、多くの場合”寒い”という言葉は”冷たい”を引き合いにだして説明するトートロジーになっているという。

鈴木さんなりに考えたのは、
「冷たいは、体の表面が一時的に(そして多くの場合部分的に)温度の低いものに触れた時の感覚で、寒いは、冷たさを身体が長い間(そして多くの場合全身的に)感じ続けた結果として生まれる不快な内部感覚」
と。

なるほどねぇ。 

 

日本語、1億2千万人が使う言葉。いがいと侮れない多さ。

日本語、大事に使用。

自分の国の言葉だもの・・・。

 

なかなか、楽しい一冊だった。

まだまだ、覚書にしたいことがたくさんあるけど、長くなりすぎたので、この辺で。

 

読書は楽しい。

 

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『日本語教のすすめ』