天上天下唯我独尊
てんじょうてんがゆいがどくそん
二か月ぶりの全生庵での坐禅会に参加してきた。
4月だというのに、寒い雨。
全生庵の桜は先週満開だったそうだ。
だいぶ葉桜だけど、まだ花も咲いている。
絶え間ない雨の音を聞きながらの坐禅。
いつもより、あっという間の時間に感じた。
坐禅の後の平井住職からのお話。
「天上天下唯我独尊」
釈迦がお生まれになったときの言葉。
ただ生きとし生けるものすべての生命に貴賤軽重はなく、すべての命にその尊厳を見ていく、という教え。
釈迦は、北インド釈迦族の王子として生まれた。父君はスッドーダナ(浄飯王じょうばんおう)、母君はマーヤー(摩耶夫人)。
摩耶夫人は、実家での出産のために実家に行く途中、ルンビニ(現在のネパールの南部タライ平原にある小さな村)で休憩された時、にわかに産気づかれ釈迦を出産。
その時、百科咲き乱れ、天からは幽玄な額の調べが響き、竜王が現れて香油浄水献じ、それを産湯につかわれた。
釈迦は、生まれるとすぐ七歩歩かれ、右手で点を指し、左手で地をさし「天上天下唯我独尊」と言われたという。
住職曰く、釈迦も人の子。生まれてすぐに歩いたり話したりできるわけではないのだから、当然これは後世の作り話であり、釈迦も「オギャー」と泣いて生まれたに違いない、と。
ごもっとも。
では、なぜ、「オギャー」が「天上天下唯我独尊」なのか。
生まれてすぐの「オギャー」は、気兼ねも遠慮も、何もない。
ただ、裸で何も持たず、精一杯「オギャー」とないて生まれてくる。
人間とは、みんなそういう風に生まれてくるもの。
そして、この無心清浄な生命、それこそが、生命の尊厳。
自己に尊厳を見るものは、他者のすべてのものに尊厳を見ることができるもの、ということだと。
人、動物、草木、すべての生命に尊厳がある、ということ。
比べなくていい。
それぞれの尊厳。
学歴とか、肩書とか、そんなものは何もなくても、ただそこにある生命が尊厳。
そうか、そうだった。
今日もこうして、朝が来て、ご飯を食べて、一日が始まる。
普通の日常があること自体がありがたいことなんだ、と。
住職が、最後にウクライナの話をされた。
コロナ前、モスクワでの坐禅会もされていた住職。
ロシアの人、一人一人は、一人の尊厳をもった人なのに。
国家というのは、どうしてこうなってしまうのか、、、というようなことをおっしゃっていた。
ホントに。
4月になって、キーウ北部のブシャの街での悲惨な状況が明らかになった。
まさに、目を覆いたくなる惨状。
本当に起きたことなのだ。
各国は、ロシアへの制裁を強めるとしている。
でも、その制裁は一般のロシアの人々の暮らしをも苦しめる。
ロシア外で暮らしていても、銀行から現金が下ろせなくなるロシア人、キャッシュカードが無効になるロシア人。。。。
ウクライナの人々、ロシアの人々、どちらも犠牲者になってしまっている。
国民国家とは、なんなのだろうか。
個人の尊厳と、国家の尊厳。
あれこれ考えても、答えはでそうにない。
今自分にできることをやろう。
ニュースに一喜一憂したところで、ウクライナの人を救えるわけではない。
釈迦の誕生日は、4月8日。
花まつり。
べつに、私は仏教徒ではないけれど、花まつり、という言葉にはちょっとわくわくする。
花は何も言わずにそこに咲いている。
コロナでも桜前線はやってきたように、ウクライナでも温かくなると花が咲くのだろう。
花は、だまって咲いている。
だまって、自分がやるべきことをやろう。
つくづく、そんなことを思った。
かっこいいとか、かっこ悪いとか、
儲かるとか、もうからないとか、
そんなことは脇に置いておいて、いま、やらなきゃ、って思ていることを粛々とやろうと思う。
チャンスは、準備をしている人のところにやってくる。
そうだ、準備するのだ。
粛々と。