禅の言葉 無地の公案

今朝教えていただいた、禅の言葉。

 

無字の公案について
無門関第一則趙州無字(無門慧開の解説)
 
三百六十の骨節(こっせつ)、八万四千の毫竅(ごうきょう:毛穴のこと)を将って(もって)、通身に箇の疑団を起こして箇の無字に参ぜよ。

昼夜提撕(ていぜい)して虚無の会を作すこと莫れ。

有無の会を作すこと莫れ。

箇の熱鉄丸(ねってつがん)を呑了(どんりょう)するが如くに相似て、吐けども又吐き出ださず。

従前の悪知悪覚を蕩尽し、久々(きゅうきゅう)に純熟して自然(じねん)に内外打成一片ならば、唖子(あし)の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。

驀然(まくねん)として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。

関将軍の大刀を奪い得て手に入るが如く、仏に逢うては仏を殺し(殺すことではなくて超越する事)、祖に逢うては祖を殺し、生死岩頭に於いて大自在(だいじざい:まったくの自由)を得、六道四生(ろくどうししょう:あらゆる輪廻)の中に向かって、遊戯三昧(ゆげざんまい)ならん。
 


坐禅の最初の公案が、「無字」。だれもが最初にならう公案
無字の無は、有無の無。
空色(くうしき)に対応する、無と有。
心の中を無、現実の世界を有とする。

 

以前にも覚書をしたことがあるけれど、今日は、その公案の解説の紹介。

無門慧開という禅僧が、『無門関』という本を書いた、その中の解説。

 

呼吸に集中する。全身全霊でもってでもって無になる。
有る、無しを考えるな。
熱い鉄の玉を飲み込むように、内も外も一緒になるぐらいの集中。
言葉がしゃべれない、それでも夢を見るかのごとく、自分を知ること。
一挙にその境地に達すると、天も祖先も凌駕してしまう。
まったくの自由になって、自由楽々になるのだ。

 

ということ。

 

無になれ、無になれ、無になれ!!
ひたすら、無になれば、自由になる。

そういうことかな。 

 

日本中が3年ぶり連休にわいた2022年のゴールデンウィークも終盤。

休暇モードから、現実モードに戻る感じだろう。

どっちが、本当の生活か?

どっちも同じ人生の一部。

休みが特別なものでもなく、仕事が特別なものでもない。

あるいは、毎日が特別なのか?

 

いやいや、毎日、普通に毎日なのだ。

「無」の時間を持つことで、すべてが「有」に感じられるのかもしれない。

 

まだまだ、無にはなれないけれど、何もインプットしない、何もアウトプットしない、ただ呼吸をしている時間、寝ているのではないから自分の呼吸だけは感じる。そんな時間をたまに持つと、脳のなかのおしゃべりが止まる。

 

そういう時間も、いい。

 

あれこれ考えても、どうにもならないことはどうにもならない。

じたばたせずに、じっと、今やるべきことに集中しよう。

 

考えても解決しないものは、いったん横において、じっと、無になってみる。

ちょっと、心が軽くなるかも。

 

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。

時間の過ごし方も、自分で決める。